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児玉源太郎 
(こだまげんたろう)

知謀、人徳を備えた最大の軍師 
日露戦争勝利の英雄  総力戦体制を整える

 大国ロシアと戦った日本は、児玉源太郎がいたから勝てたと言われている。そのことを予言した人物がいた。ドイツから兵学を教えるために、派遣されたメッケル参謀少佐である。彼は弟子である児玉に全幅の信頼を寄せており、「児玉がいるかぎり、日本が勝つ」と断言した。


児玉源太郎

父の憤死

 児玉源太郎は陸軍大将であり、日露戦争の英雄である。日本史上、最高の軍師と称えられている。身長は1メートル55センチにすぎない小男だったが、人間の器の大きさはずば抜けていた。頭脳、見識、判断力、責任感、いずれも並はずれたものを持ち、それに人徳を備えていた。当代随一の人物と言っても過言ではない。
 児玉源太郎が生まれたのは、1852年2月25日(旧暦)。半九郎とモトを父母とし、上に姉二人がおり、長男として生まれた。父は徳山藩(現在の山口県周南市)の武士で、熱烈な尊皇攘夷論者(天皇の権力の復活を目指す排外主義者)であった。彼は藩の方針を尊皇攘夷とするように重役に何度も意見具申した。あまりにも執拗で急進的な彼の態度に保守的な重役は、彼に「自宅での蟄居謹慎(外出禁止)」を申しつけた。
 自宅の座敷牢に入れられた半九郎は、憤慨し、一切の食事を拒否、無念の内に息絶えた。源太郎は4歳8ヶ月であった。中級士族であった児玉家は、一気に没落した。家を失い、親戚の家を頼って転々とするような、言語に絶する窮乏生活を余儀なくされたのである。


メッケル兵学

 児玉家が復活したのは、源太郎が13歳の時。徳山藩が、本家筋に当たる長州藩に倣って尊王攘夷派に人事が一新したからであった。時は幕末、風雲急を告げる。薩長(薩摩と長州)の秘密同盟が結ばれ、明治新政府が成立。児玉は、反政府反乱の鎮圧に数多くの軍功を立て、特急列車のように昇進。27歳で中佐となった。
 1885年3月、ドイツ陸軍中、指折りの戦術家として知られたメッケル参謀少佐が来日した。日本の陸軍大学校で、兵学を教えるためである。当時、参謀本部第一局長であった児玉は、陸軍大学校の幹事を兼任しており、後に校長に就任した。メッケル42歳、児玉32歳、運命の出会いであった。
 児玉は学生と共にメッケルの戦術教育を受け、演習旅行にも出かけた。頭脳明晰で快活、敏捷であった児玉をメッケルは深く信頼した。児玉は昼夜メッケルのそばにいて教えを受け、メッケルはドイツ軍の秘密までも惜しげもなく彼に教えたという。メッケルは児玉について「参謀としても、軍司令官としても、理想的な天分に恵まれている」と述べ、「将来、日本陸軍は児玉、あるいは児玉の日本陸軍というようになろう」と語っている。
 日露戦争が始まったとき、ドイツの新聞記者にメッケルは断言した。「日本の勝ちだ。児玉がいるかぎり、日本が勝つ」。メッケルは日本陸軍の近代化と合理化に貢献した最大功労者であり、さらに児玉源太郎を鍛え上げた日本の恩人である。日清、日露の戦争は、彼の教えに従って戦い、そして勝ったと言っても過言ではない。


捨て身の覚悟

 満州(中国の東北三省)や朝鮮に触手を伸ばそうとするロシアの野望。これに対する脅威認識は、明治のリーダーたちに共有されていた。朝鮮がロシアの勢力範囲に陥れば、日本海、黄海の制海権もロシアに握られ、日本すらもロシアの属国になりかねない。
 日本はロシアと一戦を交える覚悟を固めつつあった時期、日本に一大事が起こった。陸軍参謀総長の川上操六が、1899年5月、50歳の若さで突然死亡した。彼は陸軍の至宝と言われ、対ロシア戦の中心にいただけに衝撃は大きかった。急遽、大山巌を参謀総長に据え、田村怡与造を参謀次長に任命して、大山を補佐する体制を整えた。この田村が1903年10月に肺炎で急死。日本は、対ロシア戦の作戦全般を指揮する中心をまたしても失った。陸軍は重大事態に陥ったのである。
 田村の穴を埋めるのは誰か。作戦にぬかりなく、全軍に揺るぎない信頼を受ける徳望の人物でなければならない。当てはまるのは児玉源太郎以外にいない。誰もがそう思った。しかし、当時児玉は内務大臣(副首相格)と台湾総督を兼務しており、参謀次長への転任は地位が2階級も落ちるし、俸給も減る。児玉は大物すぎたのである。しかし、児玉には自分の地位が下がることなど何の問題にもならなかった。国家の大事の時である。彼は死を覚悟して、その任を引き受けたのである。
 児玉の2階級を下げての参謀次長就任で、鬱屈していた参謀本部の空気が一気に明るくなったという。総務部長は「天がいまだ我が国を見捨てていないことを知った。何という喜悦、何という快事」と日記に記した。国難にあって、捨て身で臨もうとする児玉の決意が周りを奮い立たせたのである。


開戦準備

 開戦には20億円が必要とされた。当時の国家の歳出総額が約8千万円だったから、それの25倍ほどになる。気の遠くなるような金額である。児玉は、財界の大御所である渋沢栄一を訪ねた。しかし、途方もない金額に渋沢は顔を曇らせるばかりで、会談は物別れに終わった。そのころ、満州にはすでにロシアの大部隊が移動し、旅順には大要塞が作られ、ロシアの軍艦がひっきりなしに出入りしていた。
 迫りくる危機を前に、児玉は渋沢を再び訪問。渋沢は「勝つ見込みはどうか」と聞いた。「今なら何とかやれる。日本はここで、国運を賭して戦う以外に道はない」。こう言うと、感極まった児玉の両目から涙がこみ上げ、どっと流れ落ちた。渋沢の肚も決まった。「児玉さん、私も一兵卒として働きます。どんな無理をしても戦費調達をやりましょう」。渋沢の目も、涙で潤んでいた。財界も対ロシア戦に立ち上がった瞬間であった。
 児玉は、対ロシア戦の最大の課題は、陸軍と海軍の関係であると考えていた。協同歩調で行くしかない。彼は海軍大臣山本権兵衛を訪ねた。そして、「陸海対等」を持ちかけたのである。常日頃、山本は「陸主海従」の習慣に不満であった。それを対等にしようというのだ。海軍にとって悪い話ではない。それに山本は、児玉が参謀次長に降格したいきさつを知り、児玉に敬意を表していた。児玉には、陸軍の利益を優先させようという狭い了見は微塵もなかった。国難に際し、陸軍のつまらない意地は捨てる。こんな児玉の気持ちが山本を動かした。そして、ついに条例が陸海対等に改正され、陸海の和がはかられたのである。こうして、財界、政界、陸海軍一致の総力戦体制が整った。ひとえに児玉の無私の精神と人徳によるものであった。


二〇三高地

 日露戦争の勝敗の帰趨を決めた重要な戦いの一つが、二〇三高地の占領にあった。ここは2百メートルほどの丘で、旅順港を見下ろすことができ、港内に逃げ込んでいるロシア艦隊を狙い撃ちできる位置にあった。
 それまで旅順要塞の正面突破を繰り返してきた第三軍(乃木希典司令官)は、要塞の端にある二〇三高地に勢力を集中し、そこを攻撃した。しかし、ロシア軍の猛射を浴び、将兵の屍を積み重ねるばかり。山頂の一角に突入して、一度は占領を果たしたものの、翌日には増援を得たロシア軍によって奪還されてしまった。報告を聞いた児玉は、ついに決断した。「俺が行くほかない」。
 これ以上、無為に将兵を死なせてはならないし、このままではインド洋経由で向かっているロシアのバルチック艦隊が到着してしまう。そうなれば陸海軍の全作戦が崩壊する。それは日本の滅亡を意味した。児玉は不退転の決意で乃木の第三軍に乗り込んだ。
 現地に着いた児玉は厳命した。「一つ、すみやかに重砲を高崎山に陣地変換せよ。二つ、二〇三高地占領後、28センチ砲を15分ごとに1発ずつ発射し、一昼夜連続射撃せよ」。高崎山から砲弾を浴びせ、二〇三高地を占領する作戦であった。砲兵少佐はすみやかな移動は無理だと主張した。児玉は怒鳴った。「やる気になればできる。24時間以内に移動を完了せよ」。
 砲兵少佐は食い下がる。「28センチ砲を連続発射すれば、味方を撃つ公算も大であります。天皇陛下の赤子(天皇を親に見立てた言い方)を陛下の砲で撃つことはできません」。児玉は怒鳴った。「陛下の赤子を無為無能の作戦でいたずらに死なせてきたのは誰か。これ以上、兵の命を無益に失わせないよう作戦を変更しろと言っているのだ」。児玉の目から涙があふれ出た。児玉の全身全霊をぶつけた一喝で、一座は静まりかえった。
 乃木軍が約4ヶ月間、攻めあぐねてきた二〇三高地は、重砲の陣地を高崎山に移しただけで、わずか4時間で陥落した。児玉は間髪を容れず、二〇三高地から港内のロシア艦隊めがけて、砲弾の雨を降らせた。これにより旅順のロシア艦隊は全滅したのである。


惜しまれた死

 1905年9月5日、日露講和条約が調印され、日露戦争は終わった。奉天(現在の瀋陽)の総司令部で条約合意の報を聞いた児玉はポロポロと涙を流し、男泣きに泣いた。日本はロシアの属国にならずに済んだのである。その10ヶ月後の7月21日、児玉は突然脳溢血で倒れ、2日後には息を引き取った。54歳の惜しまれた死であった。
 日露戦争が終わると、風のように去っていった児玉であった。歴史家は彼を「日露戦争のために天からつかわされた人」と称した。台湾総督だった児玉の下で台湾経営に辣腕をふるった後藤新平は、「日露戦争に日本は勝利したが、百年に一人と言われる絶世の謀将を亡くしてしまった。果たして日本は報われたのか」と言って、児玉の死を嘆いた。
 児玉源太郎は軍事力を使いたがる軍人を嫌った。軍国主義を嫌う希有な軍人であったのである。日露戦争後、参謀総長になった彼は、陸軍の大軍備拡張案に対しては、常に却下をしつづけた。極力、軍事力によらずに、隣国との相互利益を計ることが、国防の要であると考えていたからである。
 日露戦争後、日本は韓国の従属化を推し進めることになる。それはかつて欧米列強がたどった道に他ならなかった。日本は、ロシアの侵略主義と戦ったはずであった。もし児玉が生きていたら、また違ったアジア外交が展開されていたのではなかろうか。児玉の若すぎる死が惜しまれてならない。


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