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安田 善次郎 
(やすだ ぜんじろう)

新政府の危機を救う  
父の教え「陰徳を積め」

 安田善次郎は、誠実で情に厚く、克己勤倹であったがゆえに、信頼を勝ち取り、銀行王と言われるまでに成功した。晩年彼は、若い世代がこの日本をさらに繁栄させ、アジア、世界に活躍の場を広げることを夢見ていた。しかし、その夢の途上で凶刃に倒れてしまった。ケチと誤解されたからである。

安田善次郎


国家繁栄へと導く

 安田善次郎は、安田銀行(現在のみずほ銀行)を中核とした安田財閥(現在の芙蓉グループ)を築き上げた人物である。彼が一代で築いた富は桁が違っていた。国家予算が16億円前後の時期に、彼の個人資産は2億円を超えていた。国家予算の8分の1に及び、我が国の歴史を見ても空前絶後であった。しかし、彼の本当の偉大さは、その莫大な富によるものではない。国家の危機に際して、いつも頼られ、国家を支え続けたことである。
 にもかかわらず、現代に至るまで彼に対する世評はきわめて厳しい。ケチという評価はほぼ定着している。こうした誤解が生じたのは、晩年、無定見な寄付を戒め、いかに金を生かして使うかを追求したからである。同時に、彼は陰徳の人であった。これ見よがしの慈善を嫌い、自らの社会貢献を誇ることは絶えてなかった。そのため、彼の真の姿が伝わらず、誤解を生んでしまい、悲劇的な死を迎える一因となってしまった。彼のこのような陰徳の精神は、実は父に叩き込まれた教えであったのである。
 父政次郎(後の善悦)と母千代の三男として善次郎が生まれたのは、1838年11月25日。婦負郡富山町で農業を生業としていた政次郎は、貧しい中で質素倹約を旨とし、こつこつ勤勉に働いて金を貯めた。この善悦が、常に口にした言葉が「陰徳を積め」であった。人知れず黙々と善行を行えば、おのずと人格は磨かれるということである。善次郎は父のこの言葉を魂に焼き付けた。


26歳で独立

 善次郎が商人になろうと決意するのは、13歳の時。前田家(富山藩の藩主)に出入りする両替商の手代(番頭の代理)が、大阪から藩主の御用金を持参して城下に入ってきた時のこと。藩の重役である勘定奉行を筆頭に大勢の藩士が、わざわざ城下の外れまで、その手代を迎えに出ているではないか。大商人は最上級の武士をも平伏させる力がある。こう感じた善次郎は、激しく心揺さぶられ、大商人になろうと決意したという。
 江戸に出た善次郎は、玩具問屋や両替商などに奉公し、商売のイロハを学び始めた。この時善次郎は20歳であった。大商人になるという志を抱いていた彼は、その心構えからして他の奉公人とは違っていた。人の出入りの激しい店の入り口には、いつも履き物が乱雑に脱ぎ捨てられており、誰も直そうとはしない。善次郎は、誰に言われなくても、気が付けばそれらを揃えた。「陰徳を積め」という父の教えが染みこんでいた。
 こうして徐々に信頼を勝ち取り、貯めた金を元手に日本橋人形町に安田屋を開店した。26歳での独立である。両替と乾物(海苔、鰹節など)を商いとした。好きだった酒と煙草を断ち、毎朝4時に起き、隣近所の道を掃き、水を撒いた。まさに「克己勤倹」の商売を目指したのである。これも父の生き方そのものであった。
 この時彼は、後々語り伝えられることになる「三条の誓い」を立てた。①「独立独行。他人の力を当てにしない。女遊びをしない」。②「嘘は言わない。誘惑に負けない」。③「支出は収入の10分の8にとどめ、残りは貯蓄する」。善次郎は、生涯この誓いを守り通したと言われている。
 また善次郎の店員に対して、「お客の言うまま、店先にない物は早くさがしてあげる」「選ぶときは、最も良い品から取ってあげる」など心配りの接客法を徹底して教育した。こうした心配りの商売は評判を呼び、瞬く間に顧客の数を増やし、2年後には同じ日本橋の小舟町にもっと大きい店舗を構えるに至った。この移転を契機に安田屋を安田商店に改め、事業を両替専業とした。


新政府の窮状を救う

 江戸幕府が倒れ、明治新政権が誕生したが、新政府の財政基盤はきわめて脆弱だった。そのため利子付き太政官札(金札)の発行に踏み切らざるをえなかった。今で言う利付国債である。しかし、両替商は腰が引けていた。売れずに残ってしまえば、額面割れの危険があったからである。この時期、新政府への信頼はこの程度のものであったのだ。
 この政府の窮状を見かねて、手を挙げたのが善次郎であった。市場の混乱を承知の上で、太政官札を引き受けるというのである。市場の予想通り、金札は2割の額面割れを引き起こし、押し下げの勢いは止まらなかった。しかし、善次郎に迷いはなかった。いずれ、新政府の権威が確立し、金札が等価交換される日が来る。こう信じていた彼は、額面割れの金札を買い続け、安田商店には金札が山のように蓄積されたという。
 その後、政府が発令した禁止令(金札を額面以下で流通させるなという禁止令)などにより、ほぼ額面通りで通用するようになり、安田商店は莫大な利益を手にすることになった。額面割れで引き取っていた金札が正貨と等価になったからである。彼に先見の明があったことは明らかであるが、それ以上に特筆されるべきは、彼の愛国心である。国家の危機を前にして、座視することはできなかった。この結果、安田商店は1年間で資産を3倍に増やしたと言われ、さらに新政府の危機を救ったことで、その信頼を勝ち得たのである。


情実を嫌ったが、情に厚い

 41歳にして安田銀行を設立した善次郎の偉大さは、銀行王と言われるようになってからも、謙虚さを失わなかったことにある。ある日、一人の客が面会を申し込んできたことがあった。彼は即座に聞いた。「いくつくらいの方か?」。70ほどの老人だと言う。彼は迷わず席を立ち、階下に降りてその老人と面会した。彼の部屋は2階にあったため、老人を2階に上がらせるのはかわいそうと考えたのである。
 情に厚い善次郎ではあったが、仕事に対しては別である。情実では決して金は貸さなかった。どんなに豪華に接待されようと、相手が懇意な友人であろうと、うまくいくとは思えなかった事業には、びた一文金を出そうとはしなかった。情実によって人様から預かっている金を失うのは、罪悪だと考えていたからである。ケチだと言われた所以である。
 情実を嫌った善次郎ではあったが、情に厚い彼の人物像を物語る有名なエピソードがある。鳥取県にある八十二国立銀行の救済話が持ち込まれたときのこと。鳥取に到着した最初の晩、幼い子を連れた一人の老婆が宿に彼を訪ねてきた。
 この老婆は八十二国立銀行の預金者であった。彼女は座るやいなや、目にいっぱい涙をため語り出した。話を聞くと、鳥取の士族の出。幼子の両親は死に、新政府からいただいた秩禄公債(武士の給料を自主的に奉還した者に与えた公債)を銀行に預金して、祖母と孫がその利息で細々と暮らしているという。この銀行が潰れてしまえば、後に残るこの孫の行く末が案じられて、夜も眠れない。どうかこの銀行を引き受けて下さいと涙ぐみながら、拝むように頭を下げるのであった。
 老婆の話に深く心を動かされた善次郎は、思わず「心配なさらなくとも、私が何とかいたしましょう」と言ってしまった。慰めの言葉をかけてやらずにはおれなかったのである。老婆は安堵した様子で、彼に手を合わせてその場を引き取った。
 しかし、調べてみると銀行の実情は思ったより、はるかに酷かった。この話は断るのが筋である。しかし、あの老婆の後ろ姿を思い浮かべると、このまま断って帰京するわけにはいかない。彼はついに整理を引き受けることにした。善次郎は信義を重んじた。一度約束したことは、いかなる障害があろうともこれを実行する。彼が常々語っていたことがある。「銀行を救うのは、その何万何十万の預金者やその家族を救うのである」と。こうして生き残ったのが、現在のみずほ銀行鳥取支店である。


暗殺
 
 晩年になって善次郎は、なお意気軒昂であった。世界の一流国の仲間入りを果たした日本である。若い世代が、それを継承し、さらに繁栄させていってくれることを彼は夢見ていた。この若い世代の活躍の場は、もはや日本ではなく、アジア、世界であるはずである。そんな夢を抱きつつ、82歳の善次郎は1921年5月にマニラ、香港、広東、そして上海へと旅をした。
 善次郎が残した有名な言葉に、「五十、六十はな垂れ小僧、男盛りは八、九十」がある。まさに男盛りの絶頂で彼はアジア諸国を旅し、翌年には世界をこの目で見ようとアメリカを皮切りに世界旅行を計画していたのである。しかし、この夢は叶わなかった。
 同年の9月28日、朝日平吾なる人物が善次郎宅を訪れた。拡大する貧富の格差に社会の矛盾を感じ、資産家に対する強い反感と怒りを抱いた青年だった。彼は怒りの矛先を、世間からケチと噂された大資産家安田善次郎に向けた。よほどのことがない限り、人と会うことは拒まない善次郎である。その誠実さが裏目に出てしまった。犯人は短刀を抜いて、82歳の老人に襲いかかる。またたく間に善次郎の右胸と顔を刺した。逃げる善次郎を追い、背後から喉にとどめの一撃。ついに善次郎は絶命した。犯人の朝日は、自らの喉を掻き切り、その場に崩れ落ち最期を遂げた。
 しかし、ケチとの悪評が立っていた善次郎の死に世間は同情を寄せなかった。それどころか、労働組合など支援者が集まり、「安田に負けない葬儀をしよう」と犯人の朝日を英雄扱いする始末であった。 
 安田善次郎は、決してケチではなかった。無定見な寄付はかえって人を怠惰にする。そう確信していた彼は、克己心と向上心を持って努力しない者を軽蔑した。それ故、彼が行った寄付の多くは天災や戦災の被害者に対するものだった。本人の努力では回避できないものであるがゆえに、彼は深い同情を寄せたのである。また善次郎は次のように確信していた。企業の本来の役割は、小さな慈善にあるのではない。雇用を継続して社業を発展させていくことにある。これこそが真の社会貢献なのだと。
 善次郎の死後、彼の書類の中から東京帝国大学に講堂を寄付する計画案が発見された。長男の善之助は、迷わず善次郎の遺志を実行し、東大本郷キャンパスに講堂の建設を実現した。これが安田講堂である。学問の府のシンボルであるばかりでなく、陰徳のシンボルとしてそびえ立っている。



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