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ライシャワー  



日米の掛け橋としての運命 
渡米後アイデンティティ確認 刺傷事件で日米混血 

日本で生まれ育ったライシャワーは、16歳で渡米し、そこでアメリカ人としてのアイデンティティを確認する。その後学者として、外交官として、日米両国の相互理解のために尽力する。彼は日米の掛け橋となるために定められた運命を生き抜いた。

日本で生まれ育って

 エドウィン・ライシャワーは、日本人にとって最も馴染みのあるアメリカ人の一人として記憶されている。その生涯はアメリカの対日理解と日本の対米理解のために捧げられた。ケネディ政権時代の駐日大使として活躍したばかりではなく、ハーバード大学の教授として、日本研究に多大なる実績を残した。文字通り「太平洋の掛け橋」となって、79年間の人生を駆け抜けた。
 彼の運命を決定付けたものは、その誕生それ自体の中にあるのかもしれない。彼は日本で生まれ育ったのである。父親の職業は宣教師。日露戦争終結直後の1905年、両親はキリスト教の宣教を目的として来日した。その5年後にエドウィン・ライシャワーは誕生した。両親は日本での宣教に必ずしも成功したとは言えないかもしれないが、教育の面で果たした功績は決して小さいものではない。
 1918年に父オーガスト・カール・ライシャワーは、新渡戸稲造などの協力を得て、東京女子大学の創設に成功した。母のヘレンも1920年に日本聾話学校の開設にこぎつけた。娘(ライシャワーの妹)が聾唖者であったため、聾教育に関心を持ったためであるが、これが日本最初の聾話学校となった。
 当時在日西洋人の多くは、西洋文化優越感から抜け出せずにいた。しかし、ライシャワー家は、例外であった。日本はアジアの中で、自らの手で自らの国を治める数少ない独立国の一つであり、そのことにライシャワー家は深い敬意を抱いていた。
 こうした環境で過ごしたライシャワーは、日米の掛け橋となるような人生を運命付けられていたと言っても過言ではないだろう。最愛の妻を病で亡くした後、日本女性ハルと再婚し、1961年に彼女を伴いながら、駐日大使として日本に赴任したことも、見えざる運命の糸に導かれてのことだろう。

二つの国の角度から見る癖

 さて、日本で生まれたライシャワーは、16歳まで日本のアメリカン・スクールに学ぶことになる。箸を自由に操り、パンよりごはんを三度の食事に好む少年であった。日本語に堪能であることは言うまでもない。彼は「日本を発見する必要がなかった」と自ら述べている。日本的なことで不思議に見えたり、異国風に感じられるものは一つもなかった。日本に存在するものは、全てごく自然で正常なものに思えた。
 こんな境遇で少年時代を過ごしながら、物事を二つの角度から見る癖が付いてしまったと彼は語っている。つまり、日本の立場とアメリカの立場の二つである。この態度がその後の彼の生涯を決定付ける鍵となった。日米の掛け橋となる素地が培われていたと言ってもいいだろう。
 16歳でオハイオ州のオーバリン大学に入学するために渡米した。留学生は普通、自国から他国へ赴きながら、自己のアイデンティティを確認する。ライシャワーの場合は、逆に他国から自国へ赴きながら、自己のアイデンティティを確認することになった。オーバリン大学で学んだ4年間とハーバード大学院での2年間は、「日本に結びつけていたヘソの緒を切った」時期であった。彼の言葉を借りれば、「たまたまアメリカ人であった日本の住民」から「たまたま日本に生まれたアメリカ人」としての自己を強く意識するようになったという。
 オーバリン大学を卒業後、その後の人生を決定付ける選択をした。ハーバードの大学院で東アジアを研究することになったのである。これは当時にあっては、きわめて無謀な選択であった。そもそも東アジア学という学問分野がまだ確立しておらず、そこを卒業しても職にありつけるという保証はなかったからだ。
 しかし、皮肉にも戦争という悲劇が、東アジア及び日本研究の必要性をアメリカにおいて高めることになった。アメリカは日本という敵を倒すために、ライシャワーを必要とし、戦後の日米関係改善のためにもライシャワーを必要とした。

8年ぶりに日本へ

 1935年ライシャワーは8年ぶりに日本に戻った。その時のことを、自伝で「我が家に帰った感じがした」と述べている。しかし、当時の日本は8年前とずいぶん違ったものになっていた。1929年の世界恐慌の影響で人々の生活は先行き不安の状況に追い込まれた。世界景気の変動に流されないためには、欧米列強のように海外領土を拡張し、大帝国の建設が必要だという認識であった。日本ナショナリズムが高揚し、軍国主義とファシズムが勃興しつつあったのである。
 彼の東京帝大(東大)での研究活動は、こういう状況下で始まった。博士論文に選んだのは円仁である。円仁は838年から847年まで、日本から中国に留学した僧であり、留学時に詳しい日記を残している。この日記の英訳に全力を傾けた。日本の学者が円仁の日記を読み下し文に訳し始めたのは、ライシャワーの英訳が出てからだと言うから、彼の研究は日本の学者より一歩進んでいたと言えるだろう。
 翌年、彼は京都帝大に移った。東大で円仁の文章を通して、9世紀の日本と中国を研究したが、京大では11世紀から13世紀までの日本文学を学んだ。京都での生活は、彼の生涯の最良の年であったと語っている。何よりも京都の町が素晴らしかった。日本の歴史を研究する者にとって最高の環境であったばかりではなく、日本人の多くの友人を得たし、そこでの外国人社会ではほぼ全員と親しく交際できた。

駐日大使として来日

 ライシャワーが多くの日本人に知られるのは、日本研究者としてよりは、駐日大使としてである。1961年ケネディ政権の駐日米国大使として来日した。その頃の彼は、ハーバード大学の教授として順風満帆の学究生活が保証されていた。しかしその快適な職をなげうち、また妻ハルの猛烈な反対を押し切り、あえて政治と外交の世界に身を投ずるようになったのは、一種の使命感のようなものであった。
 それまでアメリカのアジア政策を本や雑誌、あるいは講演などで批判してきた者が、それを改善する機会から逃げることは許されないと彼は考えた。危惧がないわけではない。最も本質的な危惧は、彼が日本を愛するあまり、アメリカの代表として東京で働くには不適任ではないかという点であった。しかし、熟慮の末、日米の利益が一致している今日、日本への愛とアメリカへの忠誠は一致しうるという結論に到達した。就任要請を断る理由はなくなった。

太平洋が墓

 1964年3月24日、日米両国民にとって衝撃的な事件が起こった。ライシャワーが日本人の暴漢に襲われたのである。犯人は政治的動機の全くない精神障害者であった。非常な近視に悩んでおり、それをアメリカ占領軍や日本政府のせいと思い込み、仕返しに世間をアッと言わせることをしたかったと言う。
 大量の輸血によって一命を取り留めたものの、ライシャワーはこの事件が日米関係の傷となることを心配した。入院最初の夜、彼は即座に日本人を励ます声明を発表した。この事件が日本に対する彼の態度やアメリカ人の態度をいささかも変えるものではないという旨であった。
 大量の輸血後、ライシャワーは「日本人からたくさんの血をもらったから、これで本当の日米混血になった気がする」と語り、周囲を笑わせた。この事件に池田首相をはじめとする多くの日本人は恥じ入ったという。退院後の彼の体調は決して思わしいものではなかった。しかし、彼は辞職を考えなかった。いま辞職をすれば、日本人は責任を感じて一層恥じ入ることだろう。そう思って彼は少なくともあと1年は東京に留まることを決意する。
 この事件はその後大きな後遺症を残してしまう。大量の輸血による血清肝炎が彼を苦しめたのである。しかし、彼の日本への思いは生涯変わることはなかった。ボストンの住居を払って終の棲家を求めるとき、彼は三つの条件を出したという。太平洋が見えること。長女アンの家に近いこと。病院に近いこと。
 彼は太平洋に臨むカリフォルニアのラホーヤに新居を構え、病魔と闘いながら、1990年79歳で生涯の幕を閉じるまでの10年間をそこで過ごすことになる。彼は遺言として「葬儀/追悼式/一切不要の事」と書いた。「お墓は太平洋」と一言。遺言通り、妻ハルは彼の遺体を火葬にし、遺骨を太平洋に撒いた。太平洋が正真正銘の彼の墓となった。そして今なお彼は太平洋の掛け橋として日米両国を見つめ続けている。




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