新渡戸稲造 
(にとべいなぞう)

留学でアイデンティティ確認
国際結婚の先駆者  「太平洋の橋」を実践した生涯

  新渡戸稲造は、「日本最初の国際人」として多方面で活躍した。彼はアメリカに留学し、アメリカのキリスト教に対応する日本の精神文化は武士道であると主張する。アメリカ人女性メリーとの国際結婚。「太平洋の橋」を築く第一歩が始まった。 

日本最初の国際人
  新渡戸稲造は、5千円札の肖像として知られている。しかし彼の人物やその足跡に関しては意外に知られていない。彼の業績で特筆されるべきは、第一次世界大戦後、世界の紛争解決を目指して設立された国際連盟の事務局次長としての活躍であろう。日本が生んだ「最初の国際人」と言われるゆえんである。
  国際人としての新渡戸は、歴史教科書にも載るほどの有名人であるが、実は彼にはもう一つ教育者としての顔がある。京都大学の教授、一高(後の東大教養部)の校長、東京女子大学の学長として彼は長年教育者として学生を指導した。後世に与えた影響という点で言えば、むしろこちらの方が大きいのかもしれない。さらに台湾総督府に役人として奉職した時期もある。また著述家として膨大な著作を残してもいる。新渡戸の活躍は多方面にわたっているのである。

札幌農学校へ
  新渡戸の国際人としての第一歩はキリスト教の受容にある。彼が入学した札幌農学校はキリスト教の熱気が充満する他に類のない学校であった。アメリカのマサチューセッツ州立農学校長ウイリアム・クラークが創設と同時に招聘された。北海道の開拓はアメリカをモデルにするという政府の方針があったからである。
  クラークが日本で教えていた期間はわずか7ヵ月にすぎなかったが、学生に与えた影響は甚大なものであった。彼の教育方針は明確である。キリスト教を根底にする人格形成、これに尽きる。人格の涵養こそ、人間としての生きるべき基本であり、これなしにいかなる教育もあり得ない。教育者クラークにとってこの一点は妥協の余地のない信念であった。
  クラークの影響のもと、札幌農学校の1期生全員がキリスト教の信者になった。新渡戸が2期生として入学した当時の農学校の雰囲気は、すでにクラークが帰国していたとはいえ、キリスト教信仰の熱気に満ち溢れていた。入学1ヵ月後、新渡戸は早々とキリスト教信者になってしまった。最後まで頑固に抵抗した人物が同期の内村鑑三である。内村は後に日本を代表するキリスト教徒となり、新渡戸とは生涯の友として親密な交流を続けることになる。

太平洋の橋
  新渡戸と内村は、共に日本を代表する知識人であり、キリスト教徒であり、かつ教育者である。両者とも、アメリカでの留学体験を通して、日本のアイデンティティに目覚めていく。新渡戸は『武士道』という本をアメリカで出版した。アメリカの教育の原点にキリスト教的モラルがあるように、それに対応する日本の道徳が、実は武士道であるということを欧米人に伝えようとしたのである。内村も日本の武士道精神は、アメリカのキリスト教以上にキリスト教的であると主張した。
  この二人は共にすぐれた教育者であった。内村が日本人に神を伝えることを自らの使命と感じていたように、新渡戸は日本人に世界を伝えようとした。
  新渡戸といえば、「願わくは、われ太平洋の橋とならん」の言葉で有名である。この言葉が最初に発せられた時のエピソードを紹介しよう。農学校卒業後、彼はしばらく北海道開拓に従事していた。しかし、学問の深奥を究めたいという欲求が澎湃として興り、東京大学英文科への入学を希望した。その時面接した教授とのやりとりである。
 教授「英文学をやってどうします。」
 新渡戸「太平洋の橋になりたいと思います。」
 教授「何のことだか私はわからない。何のことです。」
 新渡戸「日本の思想を外国に伝え、外国の思想を日本に普及する媒酌になりたいのです。」

東大退学、米留学へ
  学問に対する押さえがたき情熱をもって東大に入学した新渡戸ではあったが、東大での授業は向学心旺盛な彼を満足させるものではなかった。むしろ彼は東大に失望し、友人に「愛想が尽きました」と手紙を書いている。23才の時、新渡戸は東大を退学し、横浜港からアメリカに向かった。
新渡戸の生涯が「太平洋の橋」として象徴されるのは、彼の国際的見識、人脈、あるいは後の国際連盟の事務次長や『武士道』の著者としての活躍ばかりではない。もっと実生活での体験そのものによって、裏付けられている。アメリカ人女性メリー・エルキントンとの国際結婚である。
  新渡戸とメリーの出会いの機縁となったのは、彼が札幌で得たキリスト教の信仰である。渡米後、新渡戸は日曜日ごとに教会に足を運んだ。そこで彼が見たものは、札幌で彼が体験したキリスト教とは似ても似つかない姿であった。荘厳な建物、数万数千の聴衆、驕奢な服装、贅沢なアクセサリー。どれ一つとってみても、違和感が彼を襲った。
  札幌の教会は粗野で質素なあばら屋、礼拝も信者の学生が持ち回りで担当するような素朴で原始的なものであった。しかし、若者たちの精神の中には、確かな内的覚醒が芽生えていたのである。
アメリカの教会に失望しつつあった頃、彼が出会ったのがクエーカーであった。クエーカーは17世紀にイギリスに起こったキリスト教の一派で、儀式や形式よりも、神やキリストとの霊的交わりによる宗教的感動を重視する集団である。その感動の絶頂の時、体が震動するので、クエーカー(震える人)と呼ばれるようになった。
クエーカーはそれまで、彼が出会ったアメリカのどの教会とも趣を異にしていた。質素な建物、古風な服装、礼拝も信者が瞑想し心に宗教的感動が生じた者が、立って短い感想を述べるだけ。「なるほど、これが本当の教会の姿だ」。新渡戸は札幌での原初体験を思い出したに違いない。後に彼の妻になるメリー・エルキントンは、このクエーカーの熱心な信者であった。

国際結婚の障害を越えて
  当時にあっては、日本人が外国人女性と結婚するというのは、驚天動地の大事件である。彼の悩みは一通の手紙から始まった。彼女から届いたプロポーズのラブレター。「これはエライことになった」というのが彼の率直な気持ちだった。西洋人を妻にして、閉鎖的な日本社会で生きていけるのか?好奇の目にさらされて生きていかねばならないのでは?さまざまな障害が予想された。
  さんざん思い悩んだ末、彼は決断した。自分に向けられた彼女の愛と、自分自身の彼女への愛に委ねることにしたのである。彼は神に祈りを捧げた後、彼女に結婚承諾の返事を書いた。
 しかし障害は新渡戸側だけにあったわけではない。むしろメリーの側にこそあったのである。白人の上流階級の娘が、アジアの未開社会である日本人、つまり黄色人種に嫁ぐというのである。メリーの両親も、兄弟も大反対であった。宗教的感動と人間の兄弟愛を説くクエーカーの人々すら反対した。
  結婚の話が持ち上がって以来、新渡戸に対するアメリカ人の人種的偏見と敵意は想像を絶するものであった。「黄色人種は血が濁っている。白人の娘を妻にしようとするなんて、とんでもない思い上がりだ。あの男を許すな」。それまで彼を暖かく迎え入れてくれた人々が手のひらを返したように、差別と偏見と敵意を彼に向けた。
  しかし二人の愛は変わらなかった。新渡戸の信念は「太平洋の橋」となることである。結婚という現実に直面して、日米間の溝の深さに改めて気づかされた。だからこそ、彼は「橋」となる必要があると考えた。新渡戸にとって二人の結婚は、二人の愛の確認にとどまることなく、彼の信念の一つの実践でもあったのである。
  状況は徐々に緩和されてきた。強固な反対姿勢を貫いていたメリーの兄弟たちが、まず理解を示すようになってきた。親戚やクエーカーの有力者たちも、賛同に変わり始めた。メリーの両親は結婚式の出席を拒否したが、新渡戸夫妻が日本に向かう直前、二人の結婚に賛意を伝え、家に招いて別れを惜しんだという。
  外交官として、教育者として、新渡戸の「日本最初の国際人」としての活躍はめざましいものであった。しかし、時代の流れは新渡戸の信念とは全く逆の方向に向かっていた。太平洋に橋を懸けるどころか、両国の間に戦争の気配が押し寄せていた。
 1933年3月、日本は新渡戸がかつて奉職していた国際連盟を脱退し、戦争への道を突き進むことになる。青年時代に抱いた「太平洋の橋」になるという夢は、もはや砂上の楼閣となった。同年10月、新渡戸は失意の内に息を引き取った。しかし、戦後日本は新渡戸の夢を追うかのごとく、太平洋に強固な橋を構築した。戦後の平和と繁栄は、新渡戸が残した一つの遺産であるに違いない。



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