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山川健次郎 
(やまかわけんじろう) 

教育を通して恩返し
白虎隊出身の会津魂  米エール大学を最短で卒業

  東京帝大、京都帝大、九州帝大の総長を務め、人々から尊敬を集めた山川健次郎の原点は、故郷である会津藩への郷土愛であった。幕末、会津は天皇の敵とされる屈辱を味わった。それを晴らすためにも、彼はアメリカのエール大学で死にもの狂いで勉強した。

社会を導く人

  山川健次郎は、物理学者であり教育者である。「星座の人」と呼ばれ、人々の尊敬を集めた。星座は人々に自分の位置を知らせる役割を持つ。それと同じく、山川健次郎は人々の「精神の拠り所」であり、「社会を導く人」であった。明治、大正、昭和初期にかけて、東京帝国大学(東京帝大)総長を2度も歴任し、京都帝国大学、九州帝国大学の総長も務めた。総理大臣も文部大臣も、まず健次郎の意見を聞いてから、教育行政に取り組んだと言われている。まさに教育界の重鎮であった。
  日露戦争後、東京帝大の教授処分をめぐって文部省と帝大が衝突するという事件が起こったときのこと。総長であった健次郎が、この事件による混乱の責任を取って辞任を申し出た。この時、教授、学生など全学あげての慰留運動が起こったのである。九州帝大の総長から、再び東京帝大総長に転任する際にも、学生たちが立ち上がって健次郎の留任運動が起こったほどなのである。名総長と言われたゆえんである。
  これほどまでに信望を集めたのは、彼の教育への情熱ばかりではない。高潔にして精錬潔白な人格によるところ大である。彼は清貧を旨とし、公私混同を嫌った。講演に行っても報酬は一切受け取らないし、芸者の出る宴には出席しない。近づきがたい堅物であるが、部下や学生には優しかったという。健次郎の娘は父を評して、「それは厳しく、神にも等しい人」と言った。
  こうした人間性は、もって生まれた性稟というばかりではないだろう。彼の郷里、会津藩(現在の福島県会津若松)の教育、それと少年時代の体験が、少なからず影響を与えているように思われる。

白虎隊

  1854年、健次郎は会津藩に生を受けた。江戸時代の幕引きが始まったと言われる黒船騒動(アメリカのペリー来航)の翌年のことである。それから時代は一気に徳川幕府崩壊へと突き進んでいく。会津藩は幕府側に付いて、最後まで薩長(薩摩と長州)を中心とする官軍(新政府軍)と戦った。まさに幕府側の最後の砦とも言うべき藩であったのだ。
  城に立て籠もって、頑として抵抗を試みる会津の武士の強さには、官軍もあきれ果て、逆に感嘆するほどであった。主君を守るため、武士はもとより、女、老人、子供らが結束して、文字通り命をかけて戦った。これは会津魂として、今なお語り草になっている。
  健次郎は、この時15歳(満14歳)。多感な少年は、数多くの悲劇を目撃した。親友の家では、母、祖母、兄嫁、姉、妹の5人が剣でお互いの首を刺して命を絶った。足手まといになってはならないという配慮からである。家老(重臣)の家でも、その母と妻ら女性全員が、剣で喉を突いて絶命した。父母、妻子を刺して、それから城に籠もった武士たちも決して少なくなかった。会津の街はさながら地獄絵図の様相を呈していたのである。
  ここにもう一つの悲劇が生まれた。飯盛山の悲劇である。会津には、白虎隊と呼ばれた15歳から17歳までの少年兵による軍団があった。彼ら20名が、敵から逃れて城に戻る途中、城を見下ろす飯盛山にたどり着いた時のことである。街はすでに敵軍により黒煙をあげて燃えていた。かすかに見える城の天守閣も彼らには燃えて見えた。城は敵陣に落ちてしまった。もはやこれまでと、少年たちは、向かい合って互いに剣で喉を突き刺す。血が吹き出し、その場に崩れ落ちた。20人中、19名が絶命。1人だけ通りがかりの老婆に助けられたという。この時、実は城は落ちていなかった。少年たちの思い違いであったのだ。
  この報が城内に伝えられたとき、城内の者は皆、絶句した。死んだ少年たちは皆、健次郎の友人であり、仲間である。死んだ一人一人の顔を思い浮かべながら、彼は号泣した。たまたま健次郎は体が虚弱であったため、白虎隊に入隊したものの、1日で除籍させられた経緯があったのだ。彼はこうした会津の悲劇を心に刻み込み、生涯忘れまいと誓った。健次郎の郷土愛は、こうした辛く悲しい原体験に裏付けられていたのである。

アメリカ留学

  降伏後の会津藩に復興の希望を与えてくれたのは、敵である長州隊の参謀奥平謙輔である。彼と旧知であった会津藩士秋月悌次郎が、彼と会い、会津の少年を書生に使ってほしいと頼み込んだ。会津の再建は次の世代に託すしかないと考えたからである。会津の立場に深い同情を寄せていた奥平は、これを快諾し少年2人を引き受けることにした。こうして選ばれた少年の1人が健次郎であった。
  アメリカ留学も、北海道開拓使次官黒田清隆(薩摩出身)の決断によった。留学生を薩長ばかりでなく、賊軍である会津からも選ぶべきだと主張して譲らなかった。ここに健次郎が選ばれたのである。
  1871年1月1日、16歳の健次郎は汽船「ジャパン号」に乗り込み、アメリカに向かった。引率責任者は黒田清隆である。この船の中、健次郎にとって劇的な西洋体験をした。船内の張り紙に、「明日早朝、本船は日本に向かって航海する太平洋郵便会社の船に出会うであろう。日本に手紙を出したい人は用意するように」とある。そんなバカなことがあるものか。健次郎は疑った。しかし、翌朝二つの船は太平洋のど真ん中で遭遇し、確かに郵便物を交換したのである。健次郎は度肝を抜かれてしまった。科学技術の偉大さをはじめて体験することになった。
  一行はサンフランシスコに到着し、列車で大陸を横断する。煙を吐いて走る機関車にまたもや仰天した。健次郎は科学技術の勝利を思わずにはおれなかった。会津藩は漢学を中心とした道徳教育に偏りすぎていた。科学技術を軽視したために敗北したのだと健次郎は考えた。会津のためにも日本のためにも、アメリカで科学技術を学ぼうと決意を固める。この科学技術の基礎は物理学である。こうして日本物理学の先駆者山川健次郎が誕生することになる。

死にもの狂いで勉強

  健次郎の留学目標は、名門エール大学に入学し、その卒業資格を得て帰国することだった。しかしそれは簡単なことではない。アメリカ人と同程度の会話力、それと英語の読解力、想像力、応用力、このレベルが並のアメリカ人以上でなければならない。そのため、彼は一つの決断をした。日本人のいない街で勉強することだ。
  彼が選んだ街は、ノールウィッチ。エール大学のあるニューヘブンから、北へ45キロほどにある人口1万人の田舎町。日本人は一人もいない。ここの中学に入学し、不眠不休、死にもの狂いで勉強したと言われている。
  辛いとき、いつも思い浮かべたのは会津のことであった。会津の人々の期待を一身に担っての渡米である。途中で投げ出すわけにはいかなかった。死んでいった仲間の少年たちのことを思えば、どんな苦労にも耐えられた。
  それに朝敵(天皇の敵)とされた会津藩は降伏後、下北半島(青森県)と現在の岩手県北部に移住を強制された。そこは本州最北端の地、土地はやせ、米も取れない。事実上の流罪であった。多くは先の戦争で男が戦死し、未亡人が幼子と老夫婦を連れての移住である。その上、極寒の地での慣れない農作業。うまくいくはずがない。飢えと寒さで、老人や子供はばたばたと死んでいった。朝起きると誰かが死んでいる。2度目の悲劇が会津を襲ったのである。ここに健次郎の家族もいた。
  特に下北半島に移住した人々は悲惨であった。彼らは開墾に失敗し、全国にちりぢりになってしまった。この様子がアメリカの健次郎に伝えられたとき、彼はオイオイと声を上げて泣いた。会津の人々を思うと、健次郎は弱音を吐くことはできなかったのだ。

日本人初の物理学教授に

  4年半の留学を終え、1875年秋、健次郎は帰国した。21歳になったばかりで、最短コースでのエール大学卒業であった。努力のほどがうかがわれる。
  最初の就職先は、東京大学の前身である東京開成学校、役職は教授補。学者としての人生が始まった。1879年7月、25歳にして物理学講座の教授に就任。それまで教授は全て外国人によって占められており、健次郎がはじめて外国人の壁を破ったことになる。
  教授として健次郎が力を入れたのは、自分の研究だけではなかった。国費を使って、アメリカで勉強させてもらったのである。自分の研究も大事だが、人を育てることを通して、その恩に報いたい。こう考えて、彼は教育に情熱を燃やした。
  彼は何か一つの成果が出ると、それを弟子たちに譲ったという。いつの間にか弟子たちの方が有名になることもある。しかし彼はそういうことには頓着しなかった。教育者としての自分の喜びであったからだ。著名な物理学者である田中館愛橘、長岡半太郎は健次郎の直接の門下生で、ノーベル賞を受賞した湯川秀樹、朝永振一郎はその流れに連なる物理学者であった。
  晩年、健次郎は東宮御学問所評議員に選ばれた。皇太子(後の昭和天皇)を教育するという重責を担うことになったのである。会津は朝敵とされた藩である。その出身者が未来の天皇を教育するのだ。評議員を受託したその夜、帰宅して彼は、妻が差し出した盃を飲み干した。そして、「今日ほど嬉しいことはない。会津は朝敵ではないのだ」と言って、ぽろぽろと涙を流し、妻と一緒に泣いたという。
  また健次郎が74歳の時、会津の旧藩主松平容保の孫娘が、健次郎の尽力により、皇室である秩父宮家に嫁ぐことになった。校長(武蔵高校)であった健次郎に教頭が、「会津藩の先代も、地下でさぞお喜びでございましょう」と祝いの言葉を述べ、深々と頭を下げた時のこと。健次郎は人目もはばかることなくハラハラと涙を流した。返事に詰まり、言葉にすることもできず、涙が机にぽたぽたと落ちるばかりであったという。
  それから3年後の6月26日、健次郎は近親者に見守られながら、静かにその生涯を終えた。会津の屈辱の歴史を背負って、その無念を晴らそうと努力した日々であった。死んでいった多くの仲間を思えば、いい加減な人生を送ることができなかった。謹厳で、妥協を許さないその気骨ある生涯は、今なお「星座の人」としての輝きを失っていない。




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