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湯川秀樹 
(ゆかわひでき)

日本再生の端緒となる
アメリカで出会った学者の良心  世界連邦運動への取り組み

元来、内気で内向的な性格であった少年が、自分が何者であるかを悟ることから、徐々に自信を持つようになっていく。ノーベル賞受賞はその結果である。晩年の平和運動は、アインシュタインとの衝撃的出会いから始まった。

日本人を鼓舞したノーベル賞
 湯川秀樹は日本人として初めてノーベル賞を受賞した物理学者である。受賞の朗報が届いたのは、1949年11月3日の文化の日であった。49年当時の日本は、終戦から4年目、復興の兆しすら見えない状況が続いていた。食糧事情は改善せず、インフレ抑制の政策の結果、逆にデフレ不況が始まっていた。物価が下落し、中小企業の倒産が相次ぎ、街には失業者が溢れていたのである。
 新聞各紙は号外を出し、続いて一面トップで湯川の受賞を報じた。「われわれ日本人は、全く思いがけなかった驚きと喜びを爆発させた」「科学万歳!その国際性万歳!そして文化と平和の民族万歳!」。
 これらの記事を読めばわかるように、湯川の受賞は敗戦国の国民として、ともすれば卑屈な気持ちになり、脱力感に打ちのめされていた日本人を狂喜させた。その精神を鼓舞し、日本再生の端緒となったと言ってもあながち間違いではなかろう。

「孤独な人間」
 湯川の受賞理由となった業績は、28歳の時に書いた「素粒子の相互作用について」という論文である。この論文で、湯川は原子核内の陽子と中性子の間を結びつける中間子という粒子の存在を計算式によって予言した。12年後、イギリス人学者の宇宙線観測によって一つの新しい粒子の存在が確認された。それが湯川が予言した中間子と完全に一致したのである。彼の論文が実証された瞬間であった。
 物理学を窮め、晩年には平和運動に取り組んだ湯川の生涯には、いくつかの転機があった。最初の転機が中学1年の時の体験であったと彼は回想している。夏休みに学校から、3週間ほど海水浴の合宿に行ったときのこと。宿泊先の大きな寺の本堂に着いた時、先生は「仲よし同士、二人ずつペアーを作れ」と命じた。夜、蚊帳をつって、その中に一つの布団で二人ずつ寝ることになっていた。そのために各自がパートナーを作っておく必要があったからである。
 ところが周りは相手を決めているのに、湯川だけは誰にも話しかけられず、誰も彼に声をかける者もなかった。不幸にして生徒の数は奇数であったので、湯川一人がとり残されてしまった。この時の何とも言えない悲しい気持ちが、湯川の心の奥に晩年まで消えずに残っていたと言う。
 こういう体験があって、「自分は孤独な人間なのだ」という自己認識を強く持つようになった。もともと内向的な性格であった彼が、さらに急速に内向的傾向を強めていくことになる。しかしこれでへこたれてしまうほど、彼の精神は弱くはない。担任の先生の評価は「内、剛にして、自我強し」というもので、負けん気の人一倍強い少年であった。
 外の世界とつながることができない自分、こんな孤独な自分に一体何ができるのか。自分の将来をあれこれと思いめぐらすことが多くなった。世間との交渉ができるだけ少ない世界で生きる道を考えるようになっていく。結局彼は、「学者になって学問の分野で生きるしかない」と思うようになったという。学者人生の第一歩がここに始まったと言ってもいいであろう。

物理学へ傾倒
 湯川の次の転機は三高(現在の京都大学教養部)時代に訪れる。1年生の1学期の期末試験。数学は湯川が絶対的に自信を持っていた教科であった。この時の試験も何の心配もしていなかった。しかし試験結果は彼の意に反して、わずか66点であった。1問だけ採点がゼロであったのである。
 答えも計算式も間違っていない。ただ、数学の教師は自分の講義でやった証明の通りにやらないとゼロとする偏狭な人物であった。湯川は授業で教わった解き方を忘れてしまったので、自分で解き方を考えて、解を出していたのである。「こんなの、数学じゃない。軍事教練と同じだ」。この事件を契機に湯川の数学に対する興味と情熱は急速に冷えていった。
 孤独で内向的な湯川にとって数学は、一人で閉じこもることができた唯一の楽しみであった。その世界が失われたことの喪失感は深刻なものであった。しかし数学に興味を失った結果、彼の関心は物理に向かい、物理の世界に急速度にのめり込んでいくことになる。「内、剛にして、自我強し」の性格が逆境の運命を克服しながら、人生の高い窮みに彼を誘っているかのようである。
 物理学は「量子力学」の時代を迎えつつあった。原子の構造が徐々に明らかにされようとしていたが、まだ分らないことが数多くあった。湯川にとって、量子力学の難しさは未知の世界への扉を思わせ、逆に快感ですらあったのである。後の物理学者湯川秀樹が確実に誕生しようとしていた。

客員教授としてプリンストンへ
 湯川の第三の転機はアメリカで訪れた。実は、若い頃の湯川には留学経験がない。日本の研究者にとって、欧米留学は一つの登竜門であった時代である。しかし、留学を勧める周囲に対して、湯川はきっぱりと言い切った。「私は、自分の研究テーマは自分で決めます。自分で決めた仕事を仕上げるまでは、外国へは行きたくありません。行けば、きっとそこでテーマを押しつけられますから」。自分の考えに強い自信とこだわりを持っていたのであろう。
 晩年の湯川の活躍は、物理学の分野における後進の育成はもちろんのこと、平和運動への取り組みであった。その契機となったのが、戦後客員教授として招かれたアメリカでの体験である。
 1948年、湯川はオッペンハイマーからプリンストン高等研究所の客員教授として招聘を受けた。ニュージャージー州にあるこの研究所は、当時世界のトップクラスの研究者を集めており、アインシュタインも終身研究員の一人であった。義務も事務も雑務もない中での自由な研究を設立の趣旨としていたため、湯川はかねてからこの研究所に憧れを持っていた。オッペンハイマーの申し出を湯川は快く引き受けた。
 オッペンハイマーが湯川を招聘したのは、湯川の学者としての資質を評価してのことであることは言うまでもないが、他にも理由があったと言われている。一つは、湯川が28歳の時に投稿した「中間子論」を当時オッペンハイマーは全く評価せず、彼が査読を担当していた専門誌に湯川論文の掲載を拒否したことである。その償いのため、湯川を招待したと言うのである。
 もう一つが、原爆投下に対する贖罪と言われている。彼はアメリカのマンハッタン計画、つまり原子爆弾開発の総監督であった。彼が開発した原爆が日本に投下された。湯川を呼んだのは、この贖罪意識があったためであると言われているのである。

アインシュタインの涙
 こうした贖罪意識を持っていたのは、オッペンハイマーだけではなかった。物理学の巨人アインシュタインその人物である。アインシュタインはナチスに追われてアメリカに亡命したユダヤ人科学者である。当時アメリカへの亡命を果たしたユダヤ人科学者たちが最も恐れていたことは、ナチス政権下での核兵器開発であった。これを何としても阻止しようとしていた。
 一人のユダヤ人物理学者が、ナチスへの対抗上アメリカ大統領に核兵器開発を勧告する文書を書き上げ、アインシュタインにその署名を求めた。アインシュタインからの書簡とすることで、大統領に対する勧告が説得力を持つと考えられたのである。アインシュタインは、書面を何度も繰り返し読み、考え続けていたという。そして、ついに署名した。1939年8月2日のことであった。
 湯川がアインシュタインと会ったのは、戦後3年しか経っていなかった1948年のことである。オッペンハイマーの招聘を受けて、プリンストンでの研究生活を開始した直後、アインシュタインから湯川の研究室を訪ねたいという連絡が入った。彼の晩年を決する衝撃的な出会いがあった。
 湯川がドアを開けると、表情のこわばったアインシュタインが立っていた。アインシュタインは部屋に入るや否や、左右の手を伸ばし、湯川の手を握りしめた。老人とは思えない強い力を湯川は感じた。突然、皺に囲まれた老人の大きな目から、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちた。「何も罪のない日本人を、原爆で傷つけてしまった。許してほしい」。肩を震わせながら、何度も何度もこの言葉を繰り返したと言う。
 アインシュタインといえば、物理学の頂点に立つ大天才である。この歴史的大人物が幼子のように一人の日本人の前で泣きじゃくるのである。ここに彼は学者の良心を見た。学者は研究だけをしておればいいというものではない。研究の結果には、自ずと責任が生ずる。学者である前に、まず人間でなければならない。アインシュタインの姿を通して、湯川は学者の良心を垣間見たのであった。
 その後、湯川が物理学の研究、教育とともに情熱を傾けた活動に、世界連邦運動がある。これは彼がアインシュタインと共にプリンストン時代に話し合って始めた平和運動である。地球上を戦争の起こらない仕組みにするため、世界を連邦にする以外に道はないというのが、二人の結論であった。晩年、湯川が夢見たものは、地球共同体のビジョンであった。それはアインシュタインの涙の奥底に見た人間の良心の集合体のようなものであったのかもしれない。



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