原富太郎 
(はらとみたろう) 

震災後、横浜の復興に捧げる 
日本文化を保護育成  三渓園の造営

  原富太郎は一度も日本を出たことがない。しかし、当時の横浜は、2千人以上の外国人(当時の日本最大)を抱えた国際都市。横浜港は日本の貿易の65%を担っていた。まさに日本の中の外国であった。彼はこの横浜から、世界を見ていたのである。だからこそ、日本文化を深く愛し、保護しようとした。

画像の説明

横浜を代表する実業家

  横浜の本牧に「三渓園」という名の日本庭園がある。横浜を本拠地として、生糸の貿易や製糸工場で巨万の富を築いた原富太郎によって築かれたものである。彼は横浜を代表する実業家であった。しかし、彼の本当の偉大さは、実業家としての実績でもなく、三渓園を作ったことでもない。関東大震災で、壊滅状態となった横浜の復興のため、私財を投げ打って尽力したことである。
  原富太郎は、1868年8月23日、美濃国厚見郡佐波村(現在は岐阜県岐阜市)に、庄屋であった青木久衛と琴の間の長男として生まれた。富太郎は聡明であった。4歳で百人一首(百人の歌人の和歌を選び集めたもの)を全部そらんじたほどである。それを見た父は興奮し、この地方で受けられる最高の学問を授けたいと考えた。6歳で、佐波村にできた尚友義校に入学。12歳からは隣村や大垣にある私塾などに通わせた。富太郎の学力や教養は、同世代の少年の範囲をはるかに越えるものであった。


原家の婿養子に

  17歳の時、富太郎は親元を離れて上京を決意した。大隈重信が開いた東京専門学校(現在の早稲田大学)に入学するためである。富太郎が、生涯の伴侶となる原屋寿子と出会ったのは、東京専門学校の学生の頃であった。21歳の彼は学生でありながら、同時に跡見女学校(現在の跡見学園)の歴史の講師を兼任していた。彼の教養と人格が、跡見女学校の創立者である跡見花蹊の認めるところとなったからである。屋寿子はそこの女学生であり、横浜屈指の財閥原善三郎の一人娘であった。善三郎は生糸貿易商「亀屋(通称は亀善)」を創業し、東京の渋沢栄一などと並び称される実業家であった。
  常識的に見て、結ばれる恋ではなかった。その上、善三郎は嫡男に恵まれず、屋寿子の婿を後継者にするために、最高の男を探すと息巻いていた。二人の行方には、厚い壁が立ち塞がっていたのである。この壁を崩したのが、跡見花蹊であった。何としても、この恋を結ばせてあげたい。こんな思いから、花蹊は原善三郎と富太郎との対面を計画した。
  善三郎は、花蹊の強い推薦ということがあったので、会うには会うが、「何が何でも断るぞ!」という態度であった。しかし、富太郎に会い、彼と話をしていくうちに、富太郎の落ち着いた物腰、誠実な態度に魅せられてしまい、「屋寿子の婿には、この男しかいない」と確信するに至った。そして、花蹊に頭を下げて婿入りを懇願したという。こうして二人は1891年6月13日、ついに結婚した。富太郎23歳、屋寿子18歳であった。


「世界の原」へ

  原家への婿入りは、彼自身の人生に一大転換を引き起こすものだった。学問や芸術の道を志していた彼である。それが、突然商家の若旦那として経営に携わらなければならなくなったのだ。まるで勝手がわからない。彼は一番下っ端の下男になったつもりで、一から学ぼうと決意し、忍従の日々を心に決め込んだ。
  辛い修業時代に彼を慰めたのが、妻屋寿子の存在である。彼女は心優しい女性であった。富豪の娘にありがちな驕りがまるでない。入り婿であった夫に対して、惨めな思いをさせないため、常に夫を主人として立てていた。従業員の一人は、こんな二人の姿を見て、「大将(富太郎)は偉い。奥さんはもっと偉い」と口癖のように言っていたという。
  もう一つの慰めが古美術鑑賞。1日の仕事が終わると、東京に出向き、道具屋を巡るのが常だった。日本古来の仏教画や仏像を眺めると、一時ではあっても辛い気持ちから解放され、慰められるのである。金の許す範囲で、購入することもあった。後の大蒐集家の端緒がこうして開かれたのである。
  原家に入って8年後、養父善三郎は73歳で息を引き取った。原商店の全責任が富太郎の肩にのしかかってきたのである。彼は、旧態依然たる商習慣の改革に取り組んだ。給料体系の見直しや、個人企業から合名会社への変更など、近代経営への改革であった。
  改革の一環として、手がけたのが生糸の直輸出。海外と日本の生糸相場に大きな開きがあることに目を付けた。買い付けに来る外国商人に売るより、高い相場の海外で直接販売するのである。富太郎は原輸出店という会社を新たに設け、外国語のできる有能な人材を海外に派遣し、直輸出を開始した。良質で安価な日本の絹製品は、世界で圧倒的な人気を博した。原輸出店は三井物産、三菱商事などに並ぶ、日本の5大輸出商社に一気にのし上がっていくのである。ついに、「世界の原」とまで、呼ばれるまでに成長した。


三渓園と日本文化の保護

  1902年、富太郎は一家を引き連れて、横浜の本牧に移り住んだ。本牧一帯の土地は、富太郎の進言のもとに、先代の原善三郎の代から買い続けていたものである。彼は、17ヘクタール以上の広大なその土地に、三渓園と呼ばれる日本庭園の造成を開始した。彼が自らを三渓と名乗るようになったのは、その頃からである。
  大自然を巨大なキャンバスに見立てて、そこに好きな絵を描いていく。廃寺にあった古ぼけた地蔵堂などを購入して、園内に移築した。特にこだわりを持ったのは、石の置き方である。「石は自然に水に洗われたように置かなければならない」と言い、泥だらけになりながら、自分の手で石を置いた。まさに三渓園は、原三渓の美意識の結集であった。
  それは単なる道楽ではなかった。彼には危惧があったのである。日本は欧米化を急ぐあまり、日本古来の文化をないがしろにしてきた。捨てられたような状態になっている日本の古い建物などを蘇生させることで、日本文化の優秀さを示したかった。
  1906年5月、三渓園は市民に無料で開放された。三渓園ばかりではなく、集めた美術品に関しても、彼はそれらを私蔵することを避けた。「公のものにせよ」と口癖のように語り、誰にでも惜しみなく見せた。また三渓は、鈍翁こと益田孝(三井物産の創設者)と並ぶ古美術の蒐集家として知られている。商売で稼いだお金を仏教美術などの購入に惜しみなくつぎ込んだ。三渓や益田は、日本の古美術を海外に流出させてはならない、そんな使命感に突き動かされていた。彼らは日本美術の海外流出を防ぐ上で、大きな役割を果たしていたのである。


関東大震災

  原三渓の人生を一変させる大惨事が、1923年9月1日に生じた。関東一帯を襲った大地震である。横浜の街は、一瞬にして瓦礫の山と化し、横浜だけで2万人を越える死者(全体では14万人超)が出た。その日、箱根に滞在していた三渓は横浜に急いだ。交通手段は徒歩のみ。4日かかって、ようやく三渓園に辿り着いた。そこで三渓が見たものは、園内に張られたテントの群。千人を越える横浜市民が避難していた。屋寿子の判断で、家屋を失った人々のために、三渓園を開放していたのである。さらに屋寿子は、米の買い出しを指示し、避難民に炊き出しを提供し続けていた。三渓は妻の判断に満足した。「屋寿子、よくやった。たいした女だよ。お前は」と礼賛を惜しまなかった。
  震災後、三渓の中で何かが変わった。大好きな美術品集めも、きっぱりとやめてしまった。屋寿子は自分の財産を投げ出し、三渓園内に孤児院を開設して、親を失った子供の救済活動を開始した。三渓も妻の活動を全面的に支援し、もんぺ姿で働いた。この孤児院を皮切りに彼は公共事業、慈善活動に熱中していくのである。
  横浜の復興のためにも立ち上がった。「横浜には生存の恩がある。その恩に報いるのは、今しかない」。彼の偽らざる気持ちであった。震災1週間後には「横浜貿易復興会」が結成され、会長に推された。さらに市長の強いすすめで、「横浜復興会」の会長にも就任。
  就任の挨拶で彼は次のように述べた。「横浜の外形が焼き尽くされたとしても、横浜市の本体は厳然として存在しています。それは、市民の精神であり、市民の元気であります」。さらに続けた。「横浜は今、一枚の白紙になりました。白紙になった以上、自由に絵は描けるのです。新しい文化を取り入れて、最新の絵を描けばいいのです」。三渓が語り終えると、拍手はいつまでも鳴りやまなかったという。参加者は目頭を熱くしながら、復興への決意を三渓と共有した。1年後、横浜は見事に蘇った。市の人口も銀行預金も、震災前より増加したのである。
  危急に際し、三渓が迷いなく取った行動は、他のため全体のために、自社一個の利益を顧みない行動であった。震災により、保管中の生糸が焼失し、その損害を業者間で分担する協定ができた時のことである。多くの生糸業者には、その分担金を支払う余裕がない。彼らは三渓のところに泣きついてきた。三渓は彼らの申し出にひそかに応じ、その額は2千万円(今の数千億に相当)を越えた。反対する側近には、「何十軒の生糸業者が倒れるのを見殺しにはできない」と言って、叱ったという。


他人のパンを心配

  原三渓の晩年は、決して幸福に満ち足りたものではなかった。生糸がナイロンなどの人絹(人造絹糸)に敗れ、製糸工場の整理を余儀なくされたばかりではない。1937年8月、長男の善一郎が脳溢血で倒れ、そのまま帰らぬ人になってしまった。その悲しみがまだ癒えもしないその翌年、無二の友であった鈍翁こと益田孝が急逝した。繊細な三渓は、愛する者との別れが何よりも辛かった。長男の死に顔をついに見ることができなかったし、益田孝の葬式には、病気を理由に欠席した。すっかり落ち込んでいたのである。
  益田の死から1年後の1939年8月16日、70歳の三渓は愛する者たちの後を追うかのように息を引き取った。遺言で一切の香典供花を辞退したため、実に清楚な葬式となった。棺を飾るのは白い蓮の花が数本。三渓園の池に咲いたものである。その日、横浜市議会は、生前の功労に感謝し満場一致で三渓に感謝状を贈った。
  巨万の富を築きながらも、その富に溺れることなく、高潔な生を貫いた。彼は常日頃、「自分のパンを心配するのは経済の問題だ。しかし他人のパンの心配をするのは精神の問題だ」と言っていた。彼は他人のパンを心配することができた、第一級の人物であった。


a:19123 t:1 y:9