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荻野 吟子 
(おぎの ぎんこ)

日本初の女性医師 
女性であるが故の不条理  北海道開拓の理想

 女性が医師になるという夢は、抱くことすら狂気と思われていた時代。その先駆者となった女性が荻野吟子である。彼女には、どうしても医師にならなければならない屈辱的体験があった。女性であるがゆえに受ける不条理と決別しなければならないと決意し、前人未踏の道を選択するのである。


屈辱的体験

 荻野吟子は、日本女性初の国家資格を持った医師である。男尊女卑的医学界では、女性が医師になる道はほぼ完璧に閉ざされていた。その厚い壁を破った最初の女性であった。
 吟子が生まれたのは武蔵国の俵瀬村(現在の埼玉県熊谷市俵瀬)、1851年4月4日のこと。俵瀬村の豪農であった荻野綾三郎、嘉与の五女として、ぎん(後の吟子)は何不自由なく育った。10歳の頃には、『四書五経』などをそらんずるほど聡明な子だった。そのぎんに悲劇が襲った。川上村の豪農、稲村家の長子貫一郎に17歳で嫁いだぎんが、体調がすぐれず、1年もしないうちに実家に戻ってしまったのである。漢方医に診てもらうと、淋病(性病の一種)だという。夫の貫一郎の女遊びが原因だった。当時、淋病は一生治らない業病とされ、子が産めなくなると言われていた。高熱にうなされ、腹痛に耐えながら、ぎんは嫁ぎ先に戻らない決意を固めてしまったのである。しかし、世間は出戻りのぎんには冷たかった。女だけが苦しむこんな不条理にぎんは泣いた。
 東京本郷の順天堂医院に入院したのは、それからしばらくしてからのことである。診察台で、当然のことながら、医師はぎんの局部を診察する。羞恥と驚きで硬直したぎんの体を屈強な医学生たちが支えている。頭の中が真っ白になり、無抵抗な時間が過ぎていった。何故、私はこんな罰を受けなければならないのか。死んだ方がましだ。診察が終わった後、部屋で不安そうにぎんを迎えた母の前で、彼女は泣き伏した。
 せめて女の医者がいれば、こんな屈辱を受けなくても済む。女医になりたい。こんな思いがぎんの中に芽ばえてきた。約1年に及ぶ入院生活の間、屈辱的診察の度ごとに、その思いが強まり、ついには「絶対に女医になる」という決意に変わっていったのである。

東京に学ぶ

 約1年間の入院生活後、ぎんは退院した。排尿時の痛みは感じなくなったが、いつぶり返すかわからない不安を抱えていた。医師になるという固い決意を抱いて、俵瀬に戻ったものの、何をどうしていいか、皆目検討がつかない。当時、女性が医者になる道はほぼ完璧に閉ざされていた。官立の医学校も、私塾も、定員はせいぜい二、三十名ほど。そこを出てから、前期、後期の2度に渡る医術開業試験が待ち構えている。その上、どの医学校も女性の入学を許可してはいなかった。ぎんの決意は、まさに狂気の沙汰であった。
 22歳になったぎんは、心配する母を押しきって東京に出た。学問を究めながら、女医になる機会をうかがうためである。私塾などで学んだ後、東京女子師範学校(現在のお茶の水女子大学)の第一期生として入学。この入学を機にぎんは自分の名を「吟子」とした。女性の名が犬でも呼ぶように軽く扱われることに、ぎんは以前から不満であった。女性も男性同様に堂々と漢字で書かれるべきだという思いが、この名に込められていたのである。
 約4年に及んだ女子師範学校での修業期間中、吟子は首席を守り通して卒業した。しかし、彼女の目的は教師になることではない。あくまで女医である。卒業の日、吟子は永井久一郎教授に相談した。永井は「君ほどの才能があればきっと医者になれるのに。女であるばかりに」と言ってため息をついた。その永井教授が紹介してくれた人物が、当時の医学界の重鎮である陸軍軍医監、石黒忠悳であった。石黒は、女医の必要性を説く吟子の意見に深く共感し、好寿院を紹介してくれた。


官の厚い壁

 石黒の口利きで何とか好寿院に入れたものの、聴講を許すというだけのことで、歓迎されたわけではなかった。おまけに武士階級出身の荒くれ者も少なくなかった。吟子が教室にはいると、教室内は騒然となった。下駄を床で鳴らす者、口笛を吹く者、「女、帰れ」と罵声を浴びせる者。中には演説を始める者まで出る始末であった。「諸君、今や医学道は地に落ちた。我々は婦女と同等に成り下がったのだ。この責を何とするか」。
 吟子はじっと耐えた。逃げ出すことは簡単だ。しかし、今逃げたらこれまでの努力が無駄になってしまう。ただ女であるという理由だけで受ける差別にひたすら耐え抜いた。耐えることができたのは、あの屈辱があったからだ。好寿院に入学して3年目、吟子は卒業した。それも群を抜いた成績で。まだ戦いは終わりではない。医術開業試験が待ち構えていた。この試験を女子が受けることはまだ許されてはいなかったのである。東京府(東京都)に願書を出してみるが、案の定断られた。内務省の衛生局に直接談判してみたが、とりつく島もない有様だった。
 苦悩の中でもだえる彼女に追い打ちをかけるように不幸が襲った。母の嘉与が死んでしまった。「母は死ぬ間際にうわごとのように、お前の名を呼んでいた」と語る兄の言葉を聞いて、33歳の吟子は恥も外聞もなく、泣きじゃくった。思えば、母はいつも吟子に寄り添ってくれた。嫁ぎ先から戻ってきたときも、病気で床に伏しているときも。いつも心配ばかりかけてきた自分が情けない。もしかしたら、自分の選択は間違っていたのではないか。悲しみのどん底で、ふとそんな気持ちに襲われる。しかし、その度にあの診察台での屈辱の記憶が生々しく甦ってくるのである。吟子は気持ちを奮い立たせ東京に戻った。

女医第一号

 死んだ母に報いるためにも早く女医になりたかった。しかし、官の壁は厚く、吟子の前に立ちはだかっていた。八方塞がりの中、吟子が助力を求めたのは、またも軍医の石黒忠悳であった。石黒は吟子の置かれた状況に深く同情し、内務省衛生局長の長与専斎を紹介してくれた。そればかりか、自ら三度も足を運んで、女医の必要性を長与に訴えた。女性の医術開業受験を許す布達が出たのは、その半年後の1883年秋のことである。日本の女医史にとって、特筆すべき事件となった。ついに厚い壁に風穴を開けたのである。
 その翌年の9月3日、前期試験に見事合格。半年後の後期試験にも、見事合格し、ついに日本初の女医が誕生した。合格者名簿に、「荻野吟子」の名を確認すると、吟子は「母さま、見て」と思わず叫んだ後、涙で周りが見えなくなったという。1885年3月20日、吟子は34歳の春を迎えていた。
 2ヶ月後には、本郷に平屋を借りて、「産婦人科荻野医院」の看板を出した。待合室6畳、診察室8畳という小さな病院だったが、開業1ヶ月もしないうちに、待合室は患者で溢れた。芸者などが、相手が女医ということで、一気に押し寄せたのである。淋病に苦しむ女性がこれほどまでに多いとは。吟子は改めて驚いた。その病の苦しみを知っているがゆえに、吟子の診察は実に丁寧で親切だった。それがまた評判を呼んだのである。
 こうした女性たちに接するにつれ、吟子は医療の限界を感ずるようになっていった。人の病にはそれぞれの事情が絡んでいる。医療を施すよりも、その人の周りの環境を改めた方がいい場合がはるかに多い。医者が患者にしてあげられることは、本当に微々たるものだ。吟子がキリスト教に出会ったのは、こんな気持ちで過ごしていた頃だった。

結婚と北海道開拓

 興味本位で聞きに行ったキリスト教の演説会で、吟子は新鮮な感動を覚えた。全ての人間は神の子であり、男女、職業の貴賤を問わず、平等だと言う。吟子の心は強く揺さぶられた。この思想は、新しい日本の土台になるかもしれない。興奮を覚えながら、聖書を読み始めた。何事も徹する吟子である。一字一句覚えるため、聖書の書写を始めたという。
 海老名弾正牧師の指導により入信を決意した吟子は、洗礼を受け、毎週日曜日に礼拝に参加する熱心な信者になった。さらに基督教婦人矯風会が組織されたのを契機に、その風俗部長の要職におさまった。「平和、禁酒、廃娼」を運動方針とする矯風会は、吟子の大きな励みとなり、特に廃娼運動には力を入れて取り組んだ。彼女にとって他人事ではなかったからである。
 夫になる志方之善と出会ったのも、信仰が取り持った縁であった。結婚したのは吟子が40歳の時、この時志方は26歳。年の差14歳のこの結婚に周囲の誰もが反対した。しかし、吟子は志方に強く惹かれるものを感じていた。何事も一途なのである。彼はキリスト信徒の理想郷を作ることを本気で夢見ていた。女医を目指して一途に生きてきた吟子にとって、深く共鳴できるものがあったのである。
 志方が北海道行きを吟子に告げたのは、結婚して3ヶ月後のことである。信徒の理想郷を北海道の開拓地で作るという。吟子と同様、そうと決めたら誰にも志方を止めることはできない。3年後、吟子は夫の待つ北海道に渡った。生活のことを考えたのなら、吟子は東京にとどまったであろう。しかし、吟子は東京での生活を捨て、夫と理想を共有する道を選択した。しかし、そこは想像を絶する世界だった。開墾と耕作の日々。ヤブ蚊の襲来、病気、開拓者の確執、物資の不足、極寒の冬。
 その上、吟子が北海道に渡って11年目、夫の志方が41歳の若さで息を引き取ってしまった。吟子が62年間の生涯に幕を下ろしたのは、それから8年後のことである。二人の理想ははかなく潰えてしまった。しかし、吟子は決して不幸ではなかった。苦難の末、女性が医師になる道を切り開いた先駆者となり、夫と理想を共有しながら北海道開拓に捧げた人生だったのだから。


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