岡潔 
(おかきよし) 

世界を驚嘆させた数学論文 
仙人のごとき研究生活  友人の献身に支えられて

岡潔の人生を決定づけたのは、フランスでの留学体験であった。フランスで、生涯の研究テーマが確定し、さらにかけがえのない終生の友を得た。精神を患うほどの研究一途の道は、実に孤独で多難であったが、家族と多くの友人の献身に支えられ、見事に山の頂点を極めたのである。

岡潔


数学の「奥深さ」

岡潔は数学者である。近代日本が生んだ最高の数学者と称える人もいる。数学史上、難問とされた多変数関数論の未解決問題を次々と解決した。ドイツを代表する大数学者ジーゲルは、岡の論文を読んで、「岡潔」の名を個人名ではなく、学者の集団名だと信じていたという。一人の人間の頭から出てきた論文とは信じられなかったのである。世界を驚かせた岡の論文は、数学研究一途に捧げた、孤独で苦渋に満ちた人生の中から生み出されたものであった。
 岡潔は、1901年4月19日に大阪市東区島町(現在の中央区島町)に寛治と八重を父母として生まれた。ほどなく父の故郷である和歌山県紀見村(現在の橋本市柱本)に移り住んだので、実際上の故郷は紀見村である。
 岡潔が数学の魅力に取り憑かれたきっかけは、粉河中学(現在の県立粉河高校)3年の時である。たまたま父の書棚に『数理釈義』(クリフォード著作)を発見。ここで説かれているクリフォードの定理に彼は熱中した。毎日、画用紙と定規とコンパスを使い、本当にそうなっているかどうかを調べたという。数学の「奥深さ」を感じ始めた最初であった。
 また、京都大学時代、試験に出た数学の難問と格闘し、その証明法を発見。試験中でありながら、思わず「わかった!」と叫び、周囲を驚かせた。その後、残りの試験を全て放りだして、公園のベンチで仰向けに寝そべり、感動の余韻に浸っていたという。この喜びを彼は「発見の鋭い喜び」と呼んでいる。彼を数学への道に進ませる体験となった。
 岡潔と言えば、その奇行が広く知られているが、いくぶん変わった挙動が見られるようになったのは、この頃からであった。京都の河原町(繁華街)の路地にかがみ込んで、一心に何やら図形を描く岡の姿がしばしば見受けられた。三高生(現在の京大教養部)の後輩たちは、先輩のこうした姿を見て、畏敬の念に襲われたという。

フランス留学

 1929年4月11日、京大の助教授となっていた岡潔を乗せた北野丸は、フランスに向けて神戸港を出港した。3年ほど前、岡はフランスの大数学者ガストン・ジュリアの論文を読み込んでいた。繰り返し、繰り返し読んだため、論文がすり切れてしまったという。留学するなら、ジュリアのいるフランスのソルボンヌ大学と決めていた。
 約3年間に及ぶ留学生活で、岡潔は彼の人生にとってかけがえのない二つの宝を獲得した。一つはライフワーク。ソルボンヌ大学に籍を置き、ガストン・ジュリアに師事しながら、連日数学図書館に通い詰め、ひたすら文献を読みあさった。食事は一日一食、雑務的なことは何もしない。まるで仙人のような生活ぶりだった。自分の生涯をかけて開拓すべき分野を探し続け、ついにそれを多変数関数論の分野に確定したのである。
 彼の留学3年間には、目に見える成果というものは何もない。一本の論文も書かなかったからだ。しかし、登るべき山、つまりターゲットを明確にしたことで、留学の最大の目的は達せられたのである。同時にそれは彼の茨の道の始まりとなった。前人未踏の険しい山々が聳え立っていたのである。

中谷兄弟との出会い

 フランスで獲得したもう一つの宝は、生涯の友となった中谷兄弟との出会いである。おそらく中谷宇吉郎とその弟治宇二郎と出会っていなければ、後の大数学者岡潔は決して生まれなかったと思われる。
 パリに到着するやいなや、岡潔は日本館を訪れ、そこで中谷宇吉郎と出会った。宇吉郎は、後に人工雪の製作に世界ではじめて成功することになる実験物理学者で、この頃パリに留学中であった。二人はたちまち意気投合した。岡は宇吉郎の筋向かいの部屋に陣取り、毎晩のように二人は語り合ったという。
 そこに現れたのが、治宇二郎であった。考古学を専攻する彼は、学問の先端を見極めようと、兄を頼りに単身フランスまでやってきたのである。岡はこの治宇二郎との出会いを「フランスでの私の最大の体験だった」と語り、「私たちは音叉が共鳴し合うように語り合った」と述べている。
 宇吉郎がベルリンへと去った後、岡と治宇二郎の二人はほとんど一緒に過ごし、飽くことなく語り合ったという。数学と考古学、専攻は全く異なっていたが、二人には共鳴し合う共通の体質があった。二人とも、学問の深遠さに対してのみ謙虚であろうとする理想主義的姿勢を持って研究に取り組んでいた。
 ところが、治宇二郎は異国の地で病に倒れ、学究生活の断念を余儀なくされた。日本で患った肋膜炎が再発したのである。彼の窮地を救ったのが、岡潔とその妻みちであった。留学直前に岡と結婚したみちが、パリにいる岡と合流していたのである。
 岡夫妻は、治宇二郎のために何でもしてやろうと決意した。文部省から支給される手当を倹約するため、小さなアパートに移り、残った金を治宇二郎の医療費と生活費に充てた。さらに岡は、治宇二郎のために留学延長の手続きを取った。彼を置いて帰国することはできなかったからだ。帰国したのは1932年の5月。治宇二郎を伴っての帰国であった。

広島事件

 帰国後、岡潔は広島文理科大学(現在の広島大学)に助教授として勤務した。4年が過ぎた頃、岡の人生にとって最大の転機となる事件が起こった。それは実に不可解な事件であった。1936年6月23日の夜、広島で行われた恩師園正造(京大教授)の歓迎会に出席した岡は、途中で精神に変調をきたし、席を中座して帰宅した。家では極度に興奮して錯乱状態に陥り、家を飛び出し、そのまま行方不明になってしまったのである。
 その後、近所の川の土手を歩く二人の中学生を襲い、彼らの書籍、靴、学帽などを取り上げてしまった。被害者の父兄が警察に訴えたため逮捕されたものの、病気とみなされて入院。この一件が、新聞に大々的に報道されてしまったのである。
 医者は「過度の勉強から神経衰弱が昂じたもの」と判断した。その頃、岡の心を占領していたのは、「クザンの第二問題」の論文であった。これは今日の数学の根底を作る基本原理の一つであり、後に「岡の原理」と名付けられた。この偉大な業績は、岡の人生最大の悲劇の中で誕生しようとしていたのである。
 岡自身が晩年語ったところによれば、二人の中学生を襲った後、岡は近くの神社のある丘の麓で寝そべり、「金星から来た娘の話を聞いていた」と言う。この事件の3ヶ月前、岡は親友中谷治宇二郎を失っていた。治宇二郎の死は、岡の心に計り知れない衝撃を及ぼした。孤独な戦いに耐えて来れたのは、「大発見の喜びを治宇二郎と分かち合いたい」、その一念であった。しかし今、その治宇二郎はいない。精神のバランスを崩すほどに数学の世界に沈潜していた岡には、治宇二郎に代わる化身が必要であったのだ。

友情の支え

 広島大学を休職し、その後辞職を余儀なくされ、無職となった岡潔は、故郷の紀見村で過ごすことになる。紀見村での岡潔は、ひたすら数学研究に打ち込む日々であった。村人らは、岡の奇妙な行動をしばしば目撃した。ある農夫が朝早く、山羊を連れて紀見峠の頂上付近にさしかかったとき、岡が不動の姿勢で太陽を見つめていたという。夕方、家に戻るため峠の頂上にさしかかったとき、農夫は仰天した。朝見たときと同じ場所で、同じ姿勢で太陽を見ている岡がいたのである。
 浪人生活は、13年間に及んだ。その間、岡は何度か精神のバランスを崩し、入院や療養生活を強いられた。妻をはじめ周囲が途方に暮れる中、岡を常に支え続けたのが、中谷宇吉郎であった。北大教授であった宇吉郎が体調を崩し、伊東温泉で療養していたときのことである。岡の精神の病が再発した。宇吉郎自身、体調がすぐれず、妻も大病を患っていたにもかかわらず、宇吉郎は岡を自分が療養している伊東温泉に引き取ることを提案してくれた。中谷家の現状をよく知っていた妻みちは、胸を痛めながらも、夫を宇吉郎に預けざるを得なかった。岡が心底、心許しているのは、宇吉郎だけであったからである。
 また、宇吉郎は「雪の結晶の研究」で得た賞金(服部奉公会賞)の一部を岡家に送金した。無職の岡にはありがたかった。岡の母八重は、宇吉郎の数々の配慮に泣き続けたという。宇吉郎こそ、岡の生涯の最良の恩人であった。ちょうど宇吉郎の弟治宇二郎にとって、岡が最大無比の恩人であったように。
 紀見村での13年間、岡家の生活は破綻し、人の世から隔絶していた。しかし、岡自身にとっては、独創的な発見が次々に生まれた創造の泉の期間であった。一切の余分なものを捨て去り、数学研究だけに没入できたからであろう。
 岡は友人に恵まれていた。宇吉郎の他に、三高時代の同級生、秋月康夫(京大教授、数学者)がいた。秋月は、何かと岡の相談にのり、自宅には岡がいつでも立ち寄れるように岡専用の部屋まで用意した。世界的名声を博することになった岡の第7論文をフランスの学会誌に載せるために尽力したのも、また奈良女子大学に岡を推薦したのも秋月であった。
 中谷も秋月も、岡の奇行に振り回されながらも、狂うほどに数学研究一途に生きようとする、岡の私心なき純粋さを誰よりも理解していた。「岡潔」を集団名だと勘違いしていたというジーゲルは、岡に会うため、わざわざ奈良を訪ねてきた。ジーゲルだけではない。フランスを代表する数学者アンリ・カルタン(フランス数学会会長)、アンドレ・ヴェイユ。彼らも岡の論文に驚嘆し、実在の岡潔を自分の目で見るため、奈良まで訪ねてきたのである。こうした岡の世界的評価を友人たちは自分のことのように喜んだ。彼らも、これまでの苦労が報われたのである。
 1978年、満76歳の岡潔はついに人生の幕を下ろした。岡は終生、天才といわれることを嫌った。「私の努力を知らないからだ」と言って、相手を叱りつけた。息を引き取る間際に、「とうとう解けなかった問題が2つある」と言い遺したという。いかにも岡らしい最期であった。数学研究の情熱は生涯失せなかったのである。


<関連>
・中谷宇吉郎(向学新聞2012年3月号)
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