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高橋房次 
(たかはし ふさじ)

コタンのシュバイツアー 

「医の心」「無償の愛」を実践  貧者から治療費を取らない

 北海道に渡った医師高橋房次は、先住民族アイヌの悲劇を目の当たりにし、一人の日本人としてその償いを決意する。それは彼らと彼らの文化を尊敬し、お互い同じ人間として向き合うことだった。「土人」と言われて差別を受けてきたアイヌの人々から、信頼され、そして愛された稀有な日本人だった。


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母の影響と無償の愛

高橋房次

 写真:掛川源一郎撮影
仙台藩白老元陣屋資料館所蔵

 高橋房次は、北海道の白老町で地域医療に貢献した医師である。「病気を診ずして病人を診よ」という町医者としてのあるべき姿を生涯貫き、無償の愛を実践した。特に先住民族アイヌに対しては、和人と差別することなく治療に当たったという。常にアイヌの人たちに寄り添い、彼らが先住民族として誇りを持って生きることを誰よりも願っていた。「コタンのシュバイツアー」と言われたゆえんである。
 1882年12月18日、房次は栃木県南部にある間々田村(現在小山市)に父高橋友四郎と母テイの9人兄弟の5男として生まれた。家は代々農家だったが、母のテイは村で一人しかいない産婆であった。新しい命を取り出す母の姿を見て育った彼は、この母から多大な影響を受けた。優しくて、温かい。その上、お金のことは何も言わない。また、赤ん坊のためのおむつを自分の浴衣などをほどいて作り、それを置いて来るという心配りをする女性であった。「仏さん」のような人と言われるほど、熱い信頼を得ていた。その母の口癖は、「お前は大きくなったら、お金を儲けることよりも、世のため、人のためになるような人間になりなさい」。房次はその言葉の通りに生きたのである。
 房次が医師の道を志したのは、母テイの後ろ姿を見て育ったからであろう。東京の済生学舎(現在の日本医科大学)に学んだ彼は、済生学舎の創設者・長谷川泰の「私心を捨て、全ての人々を分け隔てなく助ける」という「医の心」を深く心に刻んでいた。北海道の日高に開拓に行っていた兄から手紙が届いたのは青森で開業医をしていた頃であった。その手紙には「日高の新冠のアイヌコタン(アイヌ集落)には医者がいなくて困っている」と書かれていた。医療奉仕の実践の場を求めていた房次は、北海道に渡る決意をする。アイヌコタンで開業するため、1915年5月、32歳の房次は妻と三人の子供を連れて海を渡った。妻のミサヲには少しもためらいがなかった。医者のいない地域で医療奉仕をしたいという夫の情熱に深く共感していたのである。
 房次が開業したのは日高の高江村(現在の新冠町)。そこには500戸ばかりの家族が住み、内200戸ほどがアイヌの集落だった。そこで彼が目にしたのは、アイヌの人たちの悲惨な現実だった。新冠御料牧場(宮内庁所轄の皇室牧場)の拡張に伴い、アイヌ居住者の強制移住が強行された。皇族が泊まる貴賓館に近い新冠川の流域には、その景観のため約1万本の山桜が植えられた。当然、そこにはアイヌコタンがあり、アイヌの人々の居住地となっていた。彼らはそこからアネサルという地に約70戸ほど強制移住させられた。
 さらにアネサル地区を御料牧場の肥料場として使う目的から、またも追い出されることになった。しかも移住先は50キロも離れた原生林におおわれた未開拓地。2度の強制移住という悲劇に見舞われながらも、相手は皇室である。その権威に逆らうこともできない。約70戸、300人のアイヌの人々が手に手に荷物を持って、荷馬車を引きながら、うなだれながらその地を去っていく。房次はその姿を怒りと共に脳裏にしっかりと焼き付けた。


白老病院の院長

 房次が新冠で開業して5年ほど経った頃だ。白老のアイヌコタンに公立病院を開設する計画が持ち上がり、道庁から病院長を引き受けてほしいとの依頼があって、房次は快諾した。願ってもないことだ。常々アイヌのために何か役に立ちたいと考えていたのである。
 この病院の正式名は「北海道庁立白老土人病院」であったが、房次はアイヌの人たちを差別的な「土人」と呼ぶ根拠を認めず、「白老病院」で押し通した。新冠においてアイヌの人々の強制移住を目の当たりにした彼は、一人の日本人として、自分なりに歴史の償いをしなければならないと考えていた。それは彼らに対し、単に憐れみをかけることではない。むしろ立派な文化を持った先住民族である彼らを尊敬し、お互い同じ人間として向き合いことである。そして彼はここを「医の心」の実践場と決めていくのである。
 房次の「医の心」の実践は徹底していた。貧しい者からは治療費、薬代は一切請求しなかった。もちろん無料だったわけではない。都合のついた時に払えばよかった。魚や野菜などでもよしとした。急患が出ると夜中だろうが、雨であろうが、吹雪であろうが、往診を優先させた。もちろん往診料は受け取らない。診てもらったものの、お金を払えないために言い出せずにいる人がいた。帰り際、米や衣類などを取り出し、「これ、もって帰るのが面倒なので、もし使えるなら使ってくれんか」と言ってさりげなく置いていく。
 中には支払い能力があっても、あえて支払いをせずに診てもらう不届き者もいた。しかし、房次は「私の善意が利用されたとしても、悪意は己の心の中に必ず沈殿するものだ。自分は食べていければいい」と言って意に介さなかった。彼の善意を利用する者があることなど、彼にとってとるに足らないことだったのだ。
 一家の大黒柱であった父親が亡くなった時のこと。妻と3人の子供が遺体にすがりついて泣いていた。房次は言った。「これから大変だろうが、みんなで協力してお母さんを助けるんだよ。お兄ちゃんは、中学を辞めないように。学費は私が出してあげるから」と励ました。高橋家も決してゆとりのある状態ではなかった。しかし、彼は目の前にいる困っている人を見捨てることができない性分なのである。
 房次はアイヌと和人を差別することは一切なかった。他の町の病院では、アイヌは土間のようなところで待たされる中、和人には畳部屋があてがわれていた。治療の順番も和人優先だった。朝に診てもらいにいったアイヌの人が、夕方まで待たされることも稀ではなかった。しかし、白老病院では全く平等だった。多くの人がそのことに驚かされたという。
 道庁の方針で、庁立白老病院が役割を終えたとして廃止が決まり、房次も院長の職を解かれることになった。この一報に深刻になったのがコタンの人々であった。房次に世話になったアイヌの人々と村人らが役場に働きかけ、病院とその土地の払い下げを認めさせた。その結果、「庁立白老病院」は「高橋病院」として再出発することになったのである。彼らはみな、自分たちを助けてくれた房次に少しでも恩返しをしたかったと言っていた。


偶像化を嫌う

 房次が北海道に渡って40年近く経っていた頃、白老町議会では「名誉町民に関する条例」が制定された。この条例は、そもそも房次に名誉町民第一号を贈るために作られた法案だった。アイヌの人々を始め、町民の誰もがこれまでの房次の功績に報いたいと思っていた。しかし、ことはそう簡単ではなかった。房次当人が、「何でわしが名誉町民なんだ。医者として当たり前のことをしただけだ」と言って拒み続けたのである。
 町長が直々に説得に当たっても、「わしにそんな資格はない」と言って首を縦には振らなかった。「先生、私ら町民は恩返しの証拠を作りたいのです。そのために条例を作ったのです。条例を作ったから推挙したのではありません。町民全ての総意なのです」。町長の再三の説得に、「町長にそこまで言われては」と言って、ついに承諾した。
 その5年後の1959年、北海道庁が房次の地域医療に対する長年の貢献に報いるべく、北海道文化賞を贈ることになった。この時も房次は喜ばなかった。そんなことに金を使うよりもっと、地域の医療や低所得者への医療保護などに使うべきだと言っていた。しかし、この時も周囲の説得により、札幌のホテルで行われた贈呈式に出席した。その栄誉を称えるため、地元の白老町でも「祝う会」が開かれた。この席にはにはアイヌの人々が大挙して押し寄せ、会場を埋めた。万雷の拍手で迎えられた房次は、地元の顔見知り前にさすがに感極まって、挨拶に言葉を詰まらせた。会場のあちこちからでむせび泣く声があがった。「院長先生の長年の努力がやっと報われた」という思いが込み上げてきたのである。
 房次の胸像を作る計画が持ち上がった時も、言下に断った。「そんなものはわしには似合わない」。彼は偶像化されることを嫌っていた。しかし、すでにそのための寄付が全国から集まっていた。治療費を受け取らなかった房次のこれまでの恩に報いたいと人々が、胸像制作の話しを聞きつけて、お金を送ってきたのであった。この時も、不本意ながらしぶしぶ周囲の説得に応じることになった。除幕式が白老小学校の校庭で行われ、その祝賀会が体育館で行われた。房次が驚いたことは、胸像のための寄付があまりに多かったことだった。そのお金は胸像制作に使われた後、残った分は現金で房次に手渡された。しかし、房次はその場で社会福祉に使ってほしいと言って、全額寄付してしまったという。
 脳軟化症の症状が出始めたのは、その頃からである。意識が混濁する日々が続くようになっていた。ときどき意識が戻ると、往診カバンを探そうとしたし、息子の嫁が枕元で声をかけると、無意識のうちにその腕を取り脈を計ろうとしたという。最期の最期まで、地域の町医者としての習慣が残っていたのであろう。
 房次の死の報は、アイヌコタンに衝撃が走った。ひざまずいて空を見上げ号泣するアイヌの長老。立ったまま、空を仰いで泣き叫ぶ人々。コタンの家並みに泣き叫ぶ声があちこちであがり、涙の輪が広がった。数人のアイヌの古老たちは輪を作って、アイヌの言葉を口ずさみながら、踊り出した。大切な人を失った悲しみを表す踊りであった。1960年6月29日のことである。
 葬儀は町葬となり、アイヌ協会が中心となって取り仕切った。その焼香には、1000人を越える人々がかけつけ、その列は400メートルにも及んだという。参列者はみな、涙ぐみながら房次に感謝の言葉を送り、最期の別れを惜しんだ。
 


 
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