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田中 正造 
(たなか しょうぞう)

             足尾鉱毒事件で不屈の抵抗  
            日本初の公害事件 被害民と生死を共にする

 国政に従事する田中正造にとって政治は、民の共通の問題を処理し、公共に奉仕するための一つの手段に過ぎなかった。足尾鉱毒事件で、政治がその目的を果たせなくなったならば、彼は何のためらいもなく、政治を捨てた。政治を志した初心を最後まで持ち続けた稀有な政治家だった。

田中正造


公共への奉仕

 明治の時代、日本初の公害事件と言われた足尾鉱毒事件が起こった。足尾銅山を開発した古河鉱業(現在の古河機械金属)が、有害物質を垂れ流し、甚大な被害を引き起こした事件。田中正造は被害民を救うため、この問題に生涯を賭けて取り組んだのである。
 田中正造は、1841年下野国安蘇郡小中村(現在の栃木県佐野市)に富蔵、サキの間の長男として生まれた。田中家は身分は百姓だが、代々名主の家系で村内の民政を司っていた。正造が、生涯にわたって鉱毒の被害民救出に当たったのは、母の影響を無視することはできない。母は慈愛に満ちた女性であったが、息子のわがままを決して許さなかった。5歳の時、下僕に対する理不尽な怒りをぶつけた正造を母は暗闇の戸外に2時間ばかり放置したという。後に正造は、「この母の刑罰は、自分から加虐(弱い者いじめ)の念を断たしめるものであった。まさに慈母の薫陶の賜物である」と述べている。
 正造が政治を志したのは、30代の後半頃である。自由民権運動に身を投じ、国会開設運動に奔走した。安蘇郡選出の県会議員になり、その後、1890年7月に第一回衆議院選挙が行われた際、立憲改進党から立候補した正造は見事当選を果たした。
 彼が国会議員になるや否や、出会ったのが足尾鉱毒事件であった。政治とは公共に奉仕することと考えていた正造にとって、鉱毒事件は運命的であった。当選した翌年には、鉱毒問題に関する質問状を議会に提出。その後10年に及ぶ議会での苦闘が始った。


足尾鉱毒事件

 もともと渡良瀬川沿岸の地域は肥沃な土地だった。たびたび起こる川の氾濫により、上流から肥沃な腐葉土が運ばれたからである。米も、麦も、菜種も、どの農作物もよくとれた。その上、川魚も豊富でフナ、大エビ、雑魚、ナマズなどがざくざくとれたという。まさに渡良瀬川は生命の源であり、桃源郷さながらの趣があった。
 この関東随一と言われた肥沃な土地を、米一粒とれない荒野に変え、その住民を飢餓に追いやったのが、鉱毒事件であった。農業や漁業に甚大な被害を及ぼしただけではない。母は母乳が出なくなり、乳幼児の死亡、
病気が多発。学校も閉鎖。さらにむごいことには、被害地の娘が嫁に行けない事態が相次いだ。
 足尾鉱毒事件は単なる公害問題ではなかった。当時、富国強兵を国策とする政府にとって、銅の増産は不可欠だった。さらに、政権中枢に古河市兵衛の縁故関係者がいた。政府が一政商を庇護したいという本音が、その癒着にあることは明らかだった。
 この悲惨な現実を前にして、正造は座視するわけにはいかなかった。数十万の民の生死がかかっている。彼は足尾銅山の操業停止を求める運動に立ち上がっていくのである。国会での追及、新聞による世論の喚起などを通して操業停止を要求。政府は鉱毒調査会を発足したものの、その目的は操業を停止しないで済む方法を見つけ出すことに他ならなかった。鉱毒の垂れ流しは、いっこうに止むことはなかった。


議員辞職

 正造の運動は、合法主義に徹していた。暴力に訴えようとする過激な発想は全く見られない。1898年に1万人を超える被害民が大挙して、警察の厳重な警備を打ち破り東京に押し寄せた時のこと。不穏な空気の中、代表者だけを残して帰郷するよう説得したのは、正造だった。この時、彼は被害民と約束をした。「政府、議会、社会に訴えても、政府が操業を停止しないならば、正造自ら先頭に立って行動する」と。被害民は正造を信頼し、帰郷した。
 しかし、事態は何の進展もなかった。1年半後、被害民数千人が請願のため東京に押しかけようと集まった。もはや、正造とて止めることができない。彼らが川俣(現在の群馬県明和町)まで辿り着いたとき、待ち構えていた警官隊と衝突。抜刀した警官が、非武装の被害民を斬りつけて四散させ、百名を超える逮捕者を出した川俣事件である。
 事件に衝撃を受けた正造は、4日後、議会で演説をした。「民を殺すは国家を殺すなり」で始まるこの演説は、「亡国演説」として知られている。意味するところは、「銅山が被害民を殺し、権力が無力な民に刃を向けている。もはや亡国以外の何ものでもない」。この事件を契機に、正造は議会や政府に対する一切の期待を捨て、政治を捨てた。民を救えない政治は政治ではない。そして、かつて被害民と約束したように、彼らと行動を共にするため、議員を辞職してしまった。政治を志した初心に忠実に生きようとしたのである。
 この決断の背後には、もう一つの要因を無視することはできない。川俣事件の公判中、抗議の意志表示により官吏侮辱罪に問われ逮捕されて入獄。この時に「新約聖書」が差し入れられた。彼はこれを熟読した。それがその後の彼を支える力となったことは間違いない。「神の力は鍛えたる刀より鋭く、神が放つ弓矢は千万の力である」と語り、神と共に被害民を救おうと思い始めるのである。


谷中村に入る

 議員辞職した正造は、その年の12月10日、驚くべき行動に出た。明治天皇が乗っている馬車に向かって、直訴状を高く掲げ、「お願いがございます」と叫びながら突進した。天皇への直訴である。議員辞職した彼が取りうる最後の手段と思い詰めての行動だった。正造は天皇を深く敬愛し、その民衆に対する慈愛の心を信じて疑わなかったのである。
 直訴に及ぶ以上、生きて帰れるとは思ってはいなかった。妻への手紙に「去る10日に死すべきはずのもの。今日生命あるのは間違いである」と書いている。しかし処置に困った政府は、狂人として早々と釈放してしまった。直訴状は天皇の手には渡らなかった。しかしその反響は大きく、各地から義援金が続々と集まり、被害民を感激させた。
 それでも政府の対応は変わらない。鉱毒調査委員会は、足尾銅山には責任はないとして、鉱毒の被害除去のため、遊水池(洪水時に一時的に水を貯めておく場所)の設置を勧告する始末であった。鉱毒問題が治水問題にすり替えられてしまったのである。この遊水池に選ばれたのが谷中村であった。政府は村人を他所に移すため、買収を開始した。
 谷中村には買収を拒んで、踏みとどまっていた残留民がいた。19戸、百人余りである。1904年7月30日、正造は村の滅亡を防ぐため、谷中村に入り、川鍋宅に住み込むことにした。彼らと生死を共にしようとしたのである。人生最後の戦いが始まった。


不屈の抵抗

 正造が谷中に入って3年の月日が経った頃、ついに来るべき時が来た。警察官2百名余り、人夫数十名による家屋の強制破壊が実施された。立ち退き先も、仮小屋も用意されず、強制破壊の費用まで支払わされるという無慈悲で、乱暴なものだった。
 雷鳴と豪雨の一日。容赦なく冷たい雨が残留民を打ち続けていた。先祖の位牌を抱き、「申し訳ない」と言
って泣き伏す者。病体を小舟に横たえ、雨と波しぶきで全身ずぶ濡れになっても避難しようとしない老人。彼らの身の上を案じた正造は、全身ずぶ濡れになり、雑草を押し分け、泥水に浸かりながら慰問に駆けつけた。正造とて言葉がない。溢れ出る涙の中で、彼らをやさしく愛撫することしかできなかった。島田宗三(谷中村出身、正造の弟子)はその時のことを、「67歳のこの老義人の至誠を全世界の何ものよりもありがたいと感涙にむせんだことを、今なお忘れることができない」と述懐している。
 残留民の不屈の精神は、正造に衝撃を与えた。彼らに畏敬の念すら感じ始め、彼らに対する態度に変化が生まれた。彼らを教え諭すという保護者の立場を捨て、むしろ彼らに学び、彼らに師事する姿勢への変化である。谷中村に入って死を迎えるまでの9年間、正造は残留民と寝食を共にし、苦楽を分かち合った。そして、いかなることがあっても、彼らの傍らを離れることがなかった。そして自ら谷中残留民と名乗るようになる。知人への手紙には、「谷中村民と枕を同じくする快楽を覚えた」と書いている。
 正造の体は、ガンで病み衰えていた。病と戦い、貧困に耐える日々。それでも彼は、「今政府の横暴に抵抗しなければ正義がなくなる」と言って、死の直前まで活動を続けた。晩年、彼は自らの活動を「天国に行く道普請(天国への道作り)」と呼んだ。残留民と共にあることの中に心の安らぎを感じ、天国への希望を見出していたのである。そして、「見よ、神は谷中にあり、聖書は谷中人民の身にあり」とまで語っている。
 1913年9月4日、ほとんど行き倒れ状態で倒れ込んだ庭田宅で正造は息を引き取った。枕元に残されていたものは、菅笠と袋一つだけ。その袋の中には、日記、草稿、新約聖書、帝国憲法の小冊子、石ころ数個であったという。生前、彼は「人の生命は他のために減るので、減り尽くして死ぬのです」と語っていた。まさに他者のために全てを捧げ尽くし、文字通り無一物となって、人生の幕を下ろしたのである。
 正造の死後、谷中村の残留民はついに立ち退きを承知。谷中村復活の夢は断たれ、足尾鉱毒反対運動は失敗に終わった。しかし、正造の戦いが、後世に与えた影響を思えば、果たして敗北であったのか。2011年3月11日に発生した東北大地震の影響で、渡良瀬川下流から基準値を超える鉛が検出された。百年を過ぎた今なお、田中正造の戦いは終わっていないのかもしれない。


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