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遠山 正瑛 
(とおやま せいえい)

砂漠の緑化で世界平和を 
84歳で中国移住  「緑の協力隊」を組織

 中国内蒙古自治区のクブチ砂漠には、現在340万本ものポプラが植えられている。その結果、砂漠に森が生まれ、動物が戻り、湖までできているという。遠山正瑛が始めた砂漠緑化運動の結実である。中国に移住してまで、本格的にこの運動に彼が取り組んだのは、なんと84歳の時であった。



正義感の強い少年

 世界中の砂漠を緑にし、地球の砂漠化をくい止めたい。そして、そこに作物を作り、貧困をなくし、世界平和を実現したい。そんな途方もない夢を抱き、それに生涯を捧げた日本人がいた。遠山正瑛である。鳥取大学農学部の名誉教授で、農学者、園芸学者であった。
 遠山正瑛は、1906年12月14日、山梨県南都留郡瑞穂村(現在の富士吉田市)に生を得た。家は大正寺という名の寺で、6人兄弟の3番目。貧しい田舎寺で、その上8人の大家族。毎日の食事に事欠くような生活だった。そういう中で、正瑛は母が常に「世のため、人のために働いてくれ」と語った言葉を心に刻み込んでいた。後年、正瑛は「その母を思うと、私は人生を無駄に過ごせないのです」と言って涙ぐむことが多かった。
 家が貧しかったため、小学生の正瑛少年は、母方の祖父母に里子として預けられることになった。この祖父も住職で、明治という新しい時代になり、廃刀令が出ても、腰に刀を差して歩いていたような人物だった。祖父は正瑛少年にも、小さな木刀を与え、腰に差すよう命じたという。子供心に、それが嫌で嫌でたまらなかったと遠山は述懐している。このように武士の魂を持っていた祖父によって、厳しく躾られた少年は、正義感の強い、それでいて心根の優しい若者に成長するのである。


恩師との出会い

 仙台の旧制第二高等学校(二高)の学生の時、遠山は人生の最大の恩師に出会うことになる。山岳部の資金集めのため、二高出身の先輩である菊池秋雄教授(京大農学部)宅を訪れた時、先生から「将来何をやるつもりですか」と尋ねられた。「園芸をやりたいと思います」と答えると、先生は、即座に「園芸をやるなら京都大学ですよ」と言った。
 それまで遠山は将来、園芸農業をやろうと漠然と考えていた。家が余りにも貧しかったので、作物さえ作ることができれば、食べていくことができるという程度の考えだった。菊池教授の後押しで、将来が具体的に見えてきた。菊池教授のもとで、農学をやろうと決意を固めたのである。1931年、遠山は京都大学農学部に入学した。
 入学直後、菊池教授から言われた忘れられない言葉がある。「農学を選んだ以上、休みはありません。動物、植物は一日も休んでいない。今日から君は一日も休んでは駄目です」。その後、彼の人生は恩師のこの言葉の通りを生きるのである。
 遠山の終生の仕事、砂漠の緑化活動のきっけを与えてくれたのも、菊池教授だった。外務省から来た「中国の土地と農業の調査研究」に彼を推薦してくれたのである。菊池研究室で助手をしていたときである。二つ返事で引き受けた遠山を教授はたしなめて言った。「『行きたいとは思いますが、まずは両親に相談してからお返事します』と言うべきです」。その頃の中国行きは極めて危険なことだった。日中間にいつ戦争が起きてもおかしくなかった。戦争になれば生きて帰れるかどうかわからない。教授はそのことを心配していたのである。両親に相談すると、「お前が選んだ道を行け」と一言、反対しなかった。


砂漠を緑化する夢

 1935年、29歳の遠山は中国に渡った。北京に到着し、その後、山東省、河南省を歩き回り、黄河流域の農業調査をした。さらに内蒙古(現在の内蒙古自治区)にまで調査範囲を広げ、生まれて初めて砂漠に足を踏み入れた。そこはモウス砂漠、九州とほぼ同じ大きさで、はるか地平線の彼方まで見渡す限り砂の海だった。驚いたことに、こんな砂漠の中でも赤いケシの花や、野菜が栽培されているではないか。砂漠は、草木は育たない不毛の地だと思い込んでいた固定概念が打ち砕かれた。
 その時である、遠山の脳裏に一つの思いが、天啓のように閃いた。「砂漠の砂にも、素晴らしい生産力がある。水さえあれば、砂地こそ最も農業開発に適したところではないか」。砂と砂の間には、すき間がある。つまり、空気も十分にある。これならば、土のように耕す必要はない。水さえあればいいのだ。そう思って、砂地を両手で掘ってみた。10センチほども掘ってみると、もう砂は湿っているではないか。彼の閃きは確信に変わった。「きっと砂漠を緑化できる」。進むべき方向が決まった瞬間だった。
 1937年7月、日中戦争が勃発。中国最大の砂漠であるゴビ砂漠、タクラマカン砂漠の調査を目前にしていた遠山は、後ろ髪を引かれる思いで帰国の途についた。その5年後、鳥取高等農林学校(現在の鳥取大学農学部)に赴任。鳥取で梨の研究をするつもりでいた。菊池教授が梨の交配の大家であったので、それが先生への恩返しだと考えたのである。
 菊池教授が病に倒れたのは、その直後のことだった。見舞いに駆けつけた遠山に教授は言った。「君が梨の研究をしても、私の二番煎じになる。君にしかできないものをやってみなさい。鳥取には砂丘があるではないか」。菊池教授の最期の言葉であった。教授は、こう言いたかったに違いない。「鳥取の砂丘で砂地農業の研究に取り組め」と。自分を中国に行かせてくれたのも、鳥取に赴任させてくれたのも、砂地研究のためだったに違いない。彼は恩師の思いに目頭を熱くした。


40年ぶりの訪中

 1979年の夏、「中国西域学術調査団」が組織され、遠山はその一員に選ばれた。大学を退職して7年が過ぎており、年は72歳。実に40年ぶりの訪中であった。砂漠緑化の夢を実現するときが来たと思うと、胸の高鳴りを押さえることができなかった。
 砂地での農業には、自信があった。砂漠とは比べものにはならないが、すでに鳥取砂丘で実証済みである。長イモ、ラッキョウ、大根、白ネギなどの栽培に成功していた。特に長イモは、鳥取砂丘の特産品として、全国に知れ渡るようになっていたのである。長年、遠山を変人扱いしてきた地元の農民たちは、その実績を前にして、遠山に頭を下げた。
 この調査旅行で一行はゴビ砂漠の中心にあるトルファンにまで足を伸ばした。ここで、遠山は「砂漠は緑化できる」と中国人に訴えたが、誰も本気にしない。鳥取砂丘の時と同じように変人扱いされるばかりであった。
 遠山が、中国の砂漠と本格的に取り組むことになるのは、この調査から5年後のこと。77歳の彼は、「第一次中国砂漠開発日本協力隊」の隊長に選ばれたのである。向かった先は、甘粛省の北にある寧夏回族自治区内のテンゲル砂漠。遠山はここに「近代化ブドウ園」を作る計画を立てていた。そのため、日本から巨峰の苗木を持ち込んだ。海外に出しても通用するような高い品質のブドウ作りを目指したのである。水は近くに黄河がある。肥料は、羊や豚の糞で十分。砂漠には、害虫が寄りつかないので、農薬は全く必要ない。
 半信半疑で遠山の作業を見つめていた中国の農業関係者は、3年後に実を結んだブドウに度肝を抜かれた。粒が大きく、揃っている。その上、昼と夜の温度差のゆえに、日本のものより甘かったのである。この砂漠のブドウ園は、中国国内ばかりではなく、海外でも評判になり、多くの研究者が視察に訪れた。


ポプラの植樹

 その後、遠山は日本で「日本砂漠緑化実践協会」を設立した。内蒙古自治区のクブチ砂漠に5年間で百万本のポプラを植林するためだ。何としても中国の砂漠化をくい止めたかった。84歳でありながら、恩格貝砂漠開発モデル地区に移住してしまい、毎日10時間近く作業を続ける程の徹底ぶり。不安がる人々に、口癖のように言った言葉がある。「やればできる。やらなきゃ、できない。続けさえすれば成功。やめた時が失敗だ」。
 さらに、遠山は「緑の協力隊」の隊員を日本で募集した。この反響は大きかった。遠山の呼びかけに応じて、これまで数万人の日本人がボランティアで恩格貝に赴き、植林活動に参加した。この運動は今なお続けられており、植えられたポプラはすでに340万本を越えている。砂漠に森が生まれ、動物が戻り、湖までできた。さらに、砂漠の地に新しい産業を興すことにも成功した。野菜農園、オアシス村、遊園地まで誕生し、そこに観光客が連日押しかけるという。まさに砂漠観光である。
 鳥取県の岩美小学校から親子46名をクプチ砂漠に迎えたことがあった。子どもたちはスコップとポプラの苗木を手に、1メートル間隔ごとに掘り進んでいく。作業を終えた子どもたちは口々に言った。「はじめは、お母さんに言われていやいや参加したけど、来てよかった」。「このポプラが大きくなった頃に、もう一度訪ねたいなあ」。子どもたちの顔は、キラキラと輝いていた。地球の環境のため、少しでも役に立つことができたという充実感が溢れていたのである。「よく頑張った」と言う遠山の目に光るものがあった。
 中国政府は1999年8月、クブチ砂漠の入り口の広場に、遠山の功績を顕彰して、彼の銅像を建てた。高さ2メートルの台座に、高さ4メートルに及ぶ巨大なものだった。ちなみに中国で生きている内に銅像が建てられた人物は、遠山の他には毛沢東のみである。2004年2月27日、97歳の遠山は鳥取の病院でついに帰らぬ人になった。「自分の亡骸は中国に埋めてほしい」。彼の遺言だった。1週間後には、彼の遺骨は内蒙古のクブチ砂漠に運ばれ、そこで埋葬された。ぎくしゃくしがちな日中関係であるが、彼の功績は日中友好のシンボルとなっているのである。その後、国連は遠山の功績を称えて、「人類への貢献賞」を授与し、2006年を「砂漠と砂漠化に関する国際年」と指定した。


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