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植芝 盛平 
(うえしば もりへい)


合気道は和の武道

出口王仁三郎に師事して  「黄金体に化す」

 日本の武道を代表する人物に、嘉納治五郎と植芝盛平がいる。講道館柔道を興した嘉納は、哲学的・科学的と言われ、合気道を興した植芝は宗教的・神秘的と称された。和の武道と言われた合気道は、研ぎ澄まされた霊感、理想主義的な志、それと肉体のあくなき鍛錬から生まれたものである。




武道との出会い

HP植芝盛平肖像写真N


 植芝盛平は日本の武道・合気道の創始者である。合気道は、武道でありながら試合は厳禁で、勝ち負けを競うことを否定する。試合により、勝負そのものにこだわって、自然宇宙との和合、心身統一の理念をないがしろにすることを戒めたのである。まさに「和の武道」「愛の武道」と言われた所以である。
 
 植芝盛平が誕生したのは和歌山県西牟婁郡西ノ谷村(現在の田辺市)、1883年12月14日のこと。農業を生業とする与六とゆきの間の長男であった。父は無学ではあったが、勤勉な努力家で18年間に渡り村会議員に任じられた。怪力だったとも言われている。
 
 盛平の少年期は病的なほど神経過敏で、心身共にひ弱な少年であり、部屋に籠もって本を貪るように読んでばかりいたという。心配した父は、盛平を神社巡りに連れ出し、山道を歩かせたり、少年相撲に誘い出すなどしたことで、ひ弱な少年は自然に腕力がつき、足腰も丈夫になった。一方、母は父と対照的で、しとやかで情にもろい人で、その上、信心深かった。母は本気で盛平を僧侶にさせようと考えたこともあったという。
 
 植芝盛平が武道に出会ったのは、東京に出て商売をやり出した頃である。性に合わない商売への鬱屈を晴らそうと通い出したのが、起倒流(柔術の一流派)の道場であった。その後、4年間の軍隊生活において、外出時に堺にある柳生流の道場に通い、修行を積んだ。 除隊後、植芝に危機が訪れる。生き甲斐を探しあぐね、悶々とする日々を送っていた。しばしば癇癪を起こす。深夜突然跳ね起きて井戸端で頭から冷水をかぶる。そうかと思えば、終日ひとり部屋に籠って祈祷にふける。また深山に分け入って断食の行をしたり。新婚したての若妻はつに当たり散らすことも稀ではなかった。
 
 この窮地を救ったのは武道であった。父は息子のために、自宅前の納屋を改造して、柔道の道場にしてしまった。息子の苛立ちを少しでも鎮めようとしたのである。その上、父は田辺に来遊していた高木喜代市(講道館柔道の柔道家)に乞うて、青少年への柔道指導を依頼した。高木に月給を支払い、家まで提供した。植芝は高木の指導の下、柔道のけいこに励んだせいか、異常な行動はすっかり解消した。



北海道開拓と綾部移住


 28歳になった時、植芝は驚くべき行動に出た。田辺から有志を募り、自ら団長となり北海道の東に位置する白滝村(現在は合併して遠軽町)に入植したのである。植芝の呼びかけに応じて移住した数は54戸に及んだ。1912年3月のことである。
 
 植芝には夢があった。日露戦争後、日本の食糧危機は深刻だった。あたりには食えない連中がごろごろしている。そんな現実を目の当たりにして、フロンティア・スピリットに火がついた。国のため、人のため、一肌脱いでやろうと決意を固めたのである。
 
 しかし、北海道の開拓は想像絶する闘いだった。異常低温による未曾有の大凶作に襲われたり、焼き畑の火が強風であおられ大火災が発生し、苦心の末切り開いた開拓地は灰燼に帰すこともあった。しかし、開拓地での伐木開墾は植芝を鍛え抜いた。直径1メートルを越える巨木を、開拓当初は1年間で5百本も伐採したという。周囲が驚嘆するほどの植芝の剛力は、こうして鍛錬された結果であった。
 
 8年に及ぶ開拓事業にようやく明るい見通しが見えはじめた頃、植芝の元に「チチキトク(父危篤)」を知らせる電報が届いた。父は息子に対し、常に寛大だった。悩める息子に武道の道場を設置したり、北海道開拓に向かう息子に一代で築き上げた家産を惜しげもなく提供して、送り出してくれた。そんなかけがえのない父が今、危篤状態だという。植芝は列車に飛び乗り、和歌山までの約10日の旅を急いだ。
 
 この時、またしても植芝は突拍子もない行動に出た。父の待つ田辺ではなく、京都で山陰線に乗り換え、綾部(京都府の北部)に向かったのである。列車内で、たまたま乗り合わせた乗客から、「綾部には奇蹟を起こす大本教という新宗教がある」と聞いたからだった。信心深い植芝は、危篤の父の平癒を祈ってもらおうと立ち寄る気になったのである。
 
 綾部に着いたのは、年末の12月27日。ここで彼は生涯の師に出会うことになる。大本教を開いた出口なおの次女すみと結婚した出口王仁三郎である。開祖なおはすでに死去しており、王仁三郎が事実上の教主であった。王仁三郎は「あなたのお父さんは、あれで良いのや」と言い、天寿ゆえ、その死を穏やかに受け入れることが最善の供養だと語った。
 
 師の人間的魅力に圧倒された植芝は、まるで天啓を受けたかのように、そのまま綾部に留まり、大本の教義を学び始めた。故郷に戻ったのは1月4日。その前々日の1月2日に、父は眠るように大往生を遂げていた。父が住職に託した息子への遺言は「思うまま自由に生きよ。他に何も言うことなし」であった。

 

 その直後、植芝はまたしても驚くべき行動に出た。一家をあげて綾部に移住すると言いだした。北海道から戻った直後であり、父の死に目に間に合わなかったことで、親類縁者から非難を浴びていたのにである。従順な妻もさすがにこの時は、「神様に奉仕するといっても、食べていけるのですか」と言って反対した。すでに3人の子どもがいる。母として、当然の反対だった。しかし、いったん決断したら、テコでも動かぬ夫の性格を知っている妻は、しぶしぶ承諾した。綾部に移住したのは、その年の春。植芝37歳の時である。



合気道の創生


 出口王仁三郎は植芝に語った。「武の道を天職と定め、その道を究めよ」と。そして「真の武とは戈を止める愛善の道のためにある。従来の武道ではなく、神人一如の植芝流で行きなさい」と激励した。さらに、「植芝道場を開いたらどうか」と提案した。こうしてできた植芝道場こそが、合気道創生の産屋であった。当初は大本教の信者だけの道場だったが、綾部にどえらい武道の達人がいるという噂が広まり、全国各地から入門志願者が続々集まってきた。みな腕だめしのつもりだったのが、植芝の圧倒的な強さに感服し、その場で弟子入りしてしまう。綾部での新生活は順風満帆に推移していくように思われた。
 
 しかし、現実は甘くはなかった。綾部移住の翌年、日本神話に勝手な解釈を加えたことが「不敬罪」とされ、大本教への弾圧が始まったのである。出口王仁三郎は懲役5年を宣告され、信者は激減、幹部の半数は離反した。そればかりではない。植芝の3歳になる長男と1歳の次男が相次いで病死。孫の後を追うように母も亡くなった。植芝の生涯において、最も苦しいこの時期を必死に耐え、師の出獄を待った。
 
 数か月で保釈となった王仁三郎は、大本教の内部改革を断行し、植芝は師の片腕となってそれを支えた。万教同根の思想に基づいた聖地を満蒙(満州とモンゴル)の地に樹立しようとして、王仁三郎は満蒙行きを決行。この時も植芝は師に同行した。奉天軍に包囲された一行は、銃殺される直前に日本領事館の交渉により救出、九死に一生を得た。
 
 植芝に不思議な現象が次々に起こり始めたのは、死線を越えて綾部に戻った直後からである。神棚がカタカタと小刻みな音を立てて鳴動する。風もないのに何かが吹き抜ける気配。植芝は自らの五体の五感が以前にも増して研ぎ澄まされているのを感じていた。
 
 そんなある日、道場を出て、井戸端で汗をぬぐい終わり、庭を横切って歩いていた時のこと。足元の大地がゆらゆらと揺れ始め、周囲に無数の金色に輝く光が降り注いでいるのが見えた。そして、その光が自分の全身を包み始めたのである。思わず叫んだ。「我、黄金体に化す!」。その黄金体が宇宙いっぱいにまで充満するかのように感じられ、歓喜に満たされ、涙がとめどなく頬を濡らした。後に植芝は語っている。「あの時、私は神を見たのだ」と。この時、植芝は41歳。心眼が開かれ、「武道の根源は神の愛である」と悟った瞬間であった。真の合気道はこの日をもって出発したのである。



世界平和の祈り


 以来、武道家としての植芝は、心・技・体が最高潮に達したと言われている。大学柔道部の猛者どもが、道場破りのつもりで挑んできても、数秒で一指も触れずに投げ飛ばされてしまう。みなその場で入門してしまったという。
 
 評判が評判を生み、ついに東京に道場を構えることになったのは、1926年のことだった。日本武道の真髄を正しく体現しうる武道家を探していた竹下勇海軍大将を始め、山本 権兵衛元総理大臣など有力者の知遇を得、彼らの強い招聘を受けたためである。
 
 植芝の生涯は苦難の連続だった。特に戦後、武道は軍国主義の手先であり、民主主義の敵であるかのような風潮の中、彼は合気道の精神を守り、生涯修行を貫いた。70歳を越えても、早朝稽古、午後の稽古、夜の稽古、それぞれ2時間ずつ欠かさなかったという。
 
 1969年3月8日、肝臓を病んでいた植芝は床から起き上がれなくなった。その翌々日、病身の身を押して、「わしは稽古する」と言い、床から起き出し道場で稽古を始めた。最後の稽古であった。病床を訪れる弟子たちや親交のあった人々に向かい、「合気道は世のため国のためになるものじゃ。自分ひとりだけのものではない」と励まし続けた。
 
 植芝は戦時中の軍部の強圧的、侵略的暴走に対して、常に危惧の念を抱いていた。「和と愛と礼節あってこそ真の武道である」。さらに、「合気道の目標は、各自が一元の営みの分身として働き、世界大家族の集いとなることだ」と言い続けた。1969年4月26日、植芝盛平は世界平和を祈りながら、眠るようにして天寿を全うした。満86歳。

(写真提供/公益財団法人合気会)


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