棟方志功 
(むなかたしこう) 

棟方志功


版画で日本の魂を表現 
ゴッホに共鳴  生命の根源に至る旅 

  棟方志功の口癖は、「私は自分の仕事に責任を持っていません」だった。自分に仕事をさせている何者かがいる。自分はその手足に過ぎない。だから作品の出来、不出来は自分の責任ではないのである。晩年のインド旅行は、彼を突き動かした何者かを突き止める旅であった。

「日本美術界の一驚異」

  棟方志功は画家であり版画家である。彼の最高傑作と言われる『釈迦十大弟子』を始め、おびただしい数の作品を残しながら、72年間の生涯を一気に駆け抜けた。画壇の巨匠梅原龍三郎をして、「日本美術界の一驚異」と言わしめた人物である。
  ある者は彼を奇人変人と揶揄した。ものごとに熱中すると周りがいっさい見えなくなる。制作スタイルも異様であった。一旦、想像力が刺激されれば、画想が脳裏に膨らむ。そうなるともう止まらない。描きたいという意欲が内側から溢れかえり、目の色が変わってしまう。そして、部屋一面に埋め尽くされた画仙紙の上に、躍り回り跳び回りながら一気に描いていく。その速さと勢いは、見ている者を圧倒し、神懸かりと思わせた。志功自身、次のように語っている。「いま仕事をしているのは、われではない。仏様だ。われは仏様に動かされて動いているだけだ」と。人知を越えた何者かを感じていたのである。

大画家の片鱗

  1903年9月5日、棟方志功は青森市に幸吉とさだの間の三男として生まれた。父は腕利きの鍛冶職人。博覧会で何度も賞をもらうほどの腕前だった。典型的な職人気質で、気に入らない仕事は引き受けない。それゆえ貧乏から解放されることはなかった。その上、短気で酒乱。しばしば鬱屈した思いを家族に向かって爆発させ、酒の勢いで妻を打擲した。しかし、さだはそんな夫に反抗したことも、不平をもらしたこともなかったという。
  苦労の絶えない日々を過ごしたさだではあったが、子供への愛情は惜しむことがなかった。なけなしの金をはたいて買った焼き芋を子供たちに食べさせ、それを見て喜ぶ母の姿を志功は幼心に記憶している。母は志功が17歳の時、肝臓ガンで世を去った。棟方志功の作品には、女神崇拝があると指摘されている。おそらく彼の記憶の中に刻印された母への思慕の念があったのであろう。
  小学校の頃、志功は馬鹿子と呼ばれていた。貧しさの故だろうが、着る物に頓着しない。会う人ごとに愛嬌を振りまき、いつもはしゃぎ回っている。その上、絵に熱中する姿は異様であった。極度の近眼であったため、対象に顔を極端に近づけながら、なめ回すように観察するからだ。「棒」というあだ名を付けられたこともあった。写生に行くときなど、まっすぐ前方を凝視したまま、まるで一本の棒が少し前に傾いたような姿で、脇目もふらずにとっとと歩いていたからである。
  18歳の時、友人宅で文芸誌「白樺」の挿絵に使われたゴッホの『向日葵』を見て、衝撃を受けた。炎のように燃え上がる黄色、その中に浮かび上がる向日葵の生命力と存在感。志功はすっかり魅せられてしまった。帰り際、友人は志功に「ゴッホさ、ガにける(ゴッホを君にあげる)」と言った。志功は、「ゴッホさ、ワに?(ゴッホを私に?)」と言って、狂喜して躍り上がった。雑誌を胸に抱えて、「ワだば、ゴッホになる。ワだば、ゴッホになる(私はゴッホになる)」と叫びながら、友人の気が変わらぬうちに、そそくさと帰ったという。志功はゴッホと激しく共鳴した。

版画への道

  画業に精進するため上京することになったのは1924年、21歳の時。当面の目標は政府主催の美術展覧会である「帝展」の入選。しかし現実は甘くはなかった。連続4回の落選の憂き目を見る。入選を果たしたのは5度目の挑戦の時。故郷青森の果樹園を描いた『雑園』という作品である。
  帝展の連続落選は、決して無駄ではなかった。後の志功の成功に一つの道を準備したと言える。落選のせいか、帝展の油絵のあり方に疑いを持つようになった。どんなに偉大な洋画家であろうと、彼らはみな所詮西洋人の弟子に過ぎない。人の真似事でない自分の絵、さらに西洋人の真似事でない日本の絵を描きたい。こんなこだわりを持った志功に天啓のように閃いたのが、版画であった。日本には、あのゴッホが高く評価した浮世絵があるではないか。北斎、歌麿は木版画を通して浮世絵という日本の美を表すことに成功した。自分も木版画を通して、日本の魂を表現したい。こうして彼は版画の道を志し、それに取り憑かれたように没頭した。

柳宗悦との出会い

  棟方志功の版画家としての成功に影響を与えた人物として、第一に上げるべきは柳宗悦であろう。名もない職人が作った実用品に美を発見した人物で、民芸運動の創始者である。志功の父は鍛冶職人、芸術家に比べれば何の価値もないと思いこんでいた。しかし柳に言わせれば、優れた職人は芸術家に勝るとも劣らない立派な職業である。志功は柳と会って、出自の劣等感から解放された。
  柳と志功の出会いは、柳が審査員をしていた国画会展に志功が作品を出品したことがきっかけだった。柳は志功の大作『大和し美し』を見て、「これはただものじゃないね」と言った。本物を掘り当てたように感じたのである。柳が理想とした職人、芸術家は、「彼が手を用いているのではなく、何者かがそれを動かしている」ような者であった。彼は志功にその理想型を見いだしたのである。
  志功も柳から実に多くを学び、吸収した。単なる我流の方法にすぎなかったものが、柳を通して理論的な裏付けを得たのである。特に仏教の他力の思想。柳は言う。「自らの力で船を漕ぐのではなく、帆に他力の風を孕ませて進むのだ」と。
  情熱家の志功は、柳の一言一言に激しく心揺さぶられた。できるだけ自分を消し、無心になって描く。そこから生まれてくる何かを待つ心境になったとき、かえって棟方志功の個性が浮かび上がってきたのである。版画家としての初期の時期に柳宗悦に出会い、彼を師と仰ぐことができたことは、志功にとって実に幸運であった。

世界のムナカタ

  柳宗悦と出会って3年後の1939年、最高傑作といわれる『釈迦十大弟子』を制作した。柳の仏教講話などから刺激を受け、想像力がふくらんだものであろう。その時志功は36歳、気迫に溢れた渾身の傑作であった。等身大の大きさと言い、釈迦の弟子たちの野性味溢れる表情と言い、見る者を圧倒した。
  驚くべきことに、志功はこの12面に及ぶ作品(10弟子プラス2菩薩)をわずか1週間で仕上げてしまった。彼は自ら語っている。「調子の良い日は1日に3面できました。獣みたいな力でした」。躍りながら、飛び跳ねながら、まさに獣のように一心不乱に彫り刻んだのである。
  この作品は、志功が世界に勇躍するきっかけとなった。戦後の1955年、世界三大美術展(サンパウロ、ヴェニス、ピッツバーグ)と言われていたサンパウロ・ビエナールで、『釈迦十大弟子』などの志功の作品が、版画部門の最高賞を受賞。その翌年、ヴェニス・ビエナールでも、『釈迦十大弟子』などの作品が国際大賞(グランプリ)を受賞した。「強くて、歯切れ良く、そして濃い人間的情感を熱っぽく表現している」と激賞された。
  当時の会場スタッフは次のように述べている。「会場を訪れたほとんどすべての人が、棟方の版画の前で愕然としていました」。現代絵画が新しい形式の追求に走るあまり、素朴な生命力を失いつつあった。その中で、古代に題材を選びながらも、生気溌剌たる志功の作品は、見る者に新鮮な感動を与えたのである。まさに「世界のムナカタ」の地位を不動のものとした受賞であった。

インドへの旅

  棟方志功の作品は、日本的、仏教的な主題が大半であった。しかし、そのことが彼の作品を狭い殻の中に閉じこめることはなかった。なぜなら、日本的、仏教的主題も、彼にとっては根源的なものへと至る一つの手段に過ぎなかったからだ。彼が希求してやまなかったものは、文化や宗教などを生み出し、それらを底辺で支える根源的な何かであった。晩年、彼はインドを旅して、そのことをはっきりと自覚するようになる。
  インド最古の宗教文献『リグ・ヴェーダ』の中に「すべての宗教は真実であり、それらは異なった道を経て、同じ神に達する」とある。釈迦の足跡をたどり、イスラム文化に触れ、ヒンズー教の寺院の古代彫刻を見た。こうしたインドの旅は、それらを生み出した根源的なものに触れる旅であったのである。
  特に志功の心を捕らえて離さなかったのは、ヒンズー寺院にある女神の彫像やその壁画であった。「凄い!凄い!」を連発し、一つ一つに頭を下げながら回った。志功の女性崇拝癖は、17歳で死別した母への思慕の念に由来すると思われる。記憶の中に刻印された母の姿とインドの女神像が重なり合ったとしても不思議ではない。
  同時にそれは妻チヤの姿であったのかもしれない。志功を知る者は誰もが一様に口にする。「チヤさんと一緒になったから、あそこまで偉くなれた」と。志功は元来が愛妻家であり、肉親愛の強い人であった。しかし芸術家としての情念が、時にそれを上回ってしまう。チヤは4人の子供を食べさせていくのに常に必死だった。その気持ちを逆なでするかのように、志功は絵が売れて金が入ると、まず欲しくてたまらない美術品などを購入してしまう。チヤの苦労は想像絶するものであった。インドの女神像に頭を下げながら回った志功は、同時にチヤに頭を下げていたのであろう。
  志功にとって彫ることは祈ることであった。制作に取りかかるとき、頭に和紙で作った紙縒(紙をひねってひも状にしたもの)の鉢巻きをした。神社の注連縄(不浄なものの進入を禁ずる印の縄)を模したのであろう。自分の頭を神霊の宿る聖なる空間としようとしてのことである。そしてまるで何かに取り憑かれたかのように全身で作品にぶつかっていく。このスタイルは生涯変わらなかった。
  人生最後の旅をインドで締めくくった志功の人生は、彼を突き動かしていた何者かを探る旅であったような気がする。生きとし生ける森羅万象が、全て母なる生命の根源で一つにつながっていることをインドで確認した。インドの旅を終えてから3年後、志功は母の母胎に帰るように72年間の生涯を終えた。生命の火を燃焼し尽くして、永遠の休息に入ったのである。



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