白洲次郎 
(しらすじろう) 

「貿易立国」の道を付ける 
言うべきことを言う  マッカーサーを一喝した男 

 白洲次郎は、親や教師を困らせた悪ガキであった。その彼が、イギリス留学で大変身を遂げた。イギリス紳士の持つ行動規範を身に付けて帰国したのである。そして戦後廃墟と化した日本の復興を吉田茂の右腕となって、辣腕を振るうことになるのである。

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白洲次郎

誇り高き日本武士

  白洲次郎は、吉田茂の側近として、戦後焦土と化した日本の復興に辣腕を振るった。特筆すべきは、通商産業省(現在の経済産業省)の創設である。この通産省が日本の経済大国化にとって強力な原動力となったことはよく知られていることである。
 このように白洲次郎は、戦後復興に大きな役割を果たしながらも、それについて何も語ろうとはしなかった。名利を求めたり、功を誇るということとは全く無縁の誇り高き日本武士であったのだ。「日本は戦争には負けたが、奴隷になったわけではない」が口癖で、イギリス仕込みの英語力を武器にして、GHQ(連合国総司令部)と渡り合った。卑屈になることも、おもねることもなく、常に筋を通そうとした。戦後60年を過ぎ、日本人の精神はすっかり骨抜きになった感がある。白洲次郎から学ぶことは決して少なくない。

乱暴で傲慢な少年

  白洲次郎は、1902年2月17日兵庫県芦屋に生まれた。父の文平は、三井銀行や鐘紡で働いたが性に合わず、飛び出し独立した。綿の貿易商を始め、大成功して大金持ちになった。桁外れの豪傑で傍若無人、そしてわがままな性分だったようだ。次郎はそんな父を嫌悪していたが、何から何まで父親そっくりだったと言われている。
  神戸一中に入学した次郎は、その腕白ぶりで担任を困らせた。乱暴者で癇癪持ちで傲慢。その上、法外なお小遣いが与えられていた。父の金銭感覚は常人のそれとは違い、「これで1年を過ごせ」と言って大金を渡した。中学生の息子に自動車を買い与えるほどであったから、子供がわがままになるのは無理もない。学校で次郎が何か問題を起こすと、父が菓子折りを持って学校へ飛んでいく。家にはいつも菓子折りが用意されていたという。
  そんな手に負えない次郎を親はイギリスに留学させた。次郎自身の言葉によれば、それは「島流し」であった。神戸一中を卒業した1919年、17歳でケンブリッジ大学のクレアーカレッジに入学するため、イギリスに渡った。

留学で得た「素朴な正義感」

  ケンブリッジに「島流し」となった9年間で、次郎は豹変した。入学当初の試験結果は、最低点。最も出来の悪い学生となってしまった。その後発奮し、2年後には最も優秀な学生の一人になっていた。経済学者ケインズなど世界トップレベルの知性に触れたことが、要因の一つであろう。
  しかし、彼を変えた最大の要因は友情であった。特にロビン・ビングとの友情は格別の意味を持つことになる。彼は伯爵の称号を持つ貴族の出で、身のこなしといい、教養といい、古き良き時代
の英国紳士の典型のような人物だった。このロビンから英国紳士の伝統を吸収したのである。友情のきっかけは、喧嘩に弱いロビンが、喧嘩を売られ往生しているところを次郎が見かねて、救ったことにある。何ごとにも地味で控えめなロビン、行動的で闘志をむき出しにする次郎。二人の性格は全く正反対であったが、不思議と馬が合い、二人の友情は生涯続いた。
  1928年、次郎は帰国を余儀なくされた。父の会社が昭和恐慌(1928年)のあおりで倒産したからである。9年間の留学生活での最大収穫は、英国紳士からプリンシプル(行動規範)を学び、それを身に付けたことであった。彼自身それを「素朴な正義感」と呼んでいる。手に負えない乱暴者が生まれ変わって帰国したのである。

吉田茂との出会い

  帰国した翌年、白洲次郎は樺山正子と結婚した。正子の父は樺山愛輔、海軍大将樺山資紀伯爵の長男であった。愛輔は政財界に知己が多く、特に牧野伸顕(大久保利通の次男)と親しかった。この牧野の娘と結婚したのが吉田茂。白洲次郎の人生に決定的な影響を与えた人物である。
  吉田との交流を深めたのは、日本食糧工業(後の日本水産)に重役として迎えられた以降である。役職は取締役外地部隊部長。会社に出向くことはまれで、ほとんど海外で過ごしていた。ちょうど吉田茂がロンドンに駐英大使として赴任していた時期と重なり、イギリスに渡った際は日本大使館が白洲の常宿となった。
  吉田も、白洲も、共に歯に衣着せぬ物言いで毒舌家、向う気が強い点もよく似ていた。親子ほどの年齢差にもかかわらず、ずけずけと思ったままを率直に話す白洲を吉田はこよなく愛し信頼した。大使館の地下室でビリヤードをしていると、「コノバカヤロー」「コンチクショウ」と罵声が飛び交う。喧嘩しているのではと館員が心配して見に行くこともあったという。気の置けない二人の仲であったのだ。

従順ならざる日本人

  白洲は誰はばかることなく、「この戦争は必ず負ける」と広言していた。このままでは、日本は世界大戦に巻き込まれる。そうなれば東京は爆撃され、食糧難に陥るのは必至。こう判断した白洲は、会社を辞め、鶴川村(現在の町田市北部)に5千坪の土地を購入し、百姓を始めた。1940年、日本は戦争への坂道を転げ落ちていた時期である。
  戦時中、白洲は自分の畑で取れた野菜を知り合いによく配り歩いた。野菜を乱暴に新聞紙にくるみ、ドサッと玄関先に置き、そのまま立ち去ってしまう。物音を聞きつけた家人が玄関に出てみると、そこには誰もいない。食糧難の時期である。友人は一風変わった訪問者に心から感謝したという。ぶっきらぼうではあったが、心優しい白洲の一面を伝えるエピソードである。
  終戦直後の東久邇宮内閣に続き、幣原内閣が成立したとき、外務大臣に吉田茂が就任した。白洲は吉田茂に請われて、終戦連絡事務局の参与(翌年からは次長)として公職に就いた。吉田が終戦連絡事務局の総裁を兼任していたからである。GHQ当局との交渉が主な仕事であった。
  吉田が白洲を選んだのは、気心の知れた仲であり、ずば抜けた英語力の持ち主だということだけではない。むしろ彼の交渉力である。GHQの高官に対して、はっきり物の言える日本人はきわめて少なかった。しかし白洲次郎は違った。相手が誰であろうが言いたいことは言う。この姿勢はマッカーサーに対してすら例外ではなかった。
  天皇からマッカーサーに贈られるクリスマスプレゼントを届けたときのこと。マッカーサーに挨拶し、贈り物を差し出した。マッカーサーは、絨毯を親指で示し、事務的に言った。「その辺に、置いていってくれ」。これを聞いた白洲は、烈火のごとく怒り、マッカーサーを一喝した。「これは天皇陛下からの贈り物である。たとえ敗戦国とはいえ、統治者からの贈り物である。それなりの礼を尽くして受け取られるのが原則ではないか。なのに、その辺に置けとは何ごとか。礼儀をわきまえないものに贈り物を渡すことはできない。持ち帰らせていただく」。
  マッカーサーはうろたえた。「待ってくれ」と言って、秘書官を呼び寄せ、新たなテーブルを用意させ、その上にうやうやしく贈り物を置いた。まさに「従順ならざる日本人」であったのである。後に白洲は語っている。「抵抗らしい抵抗をした日本人がいるとすれば、ただ二人。一人は吉田茂であり、もう一人はこの僕だ」。

通商産業省の誕生

  1948年、第二次吉田内閣が成立。白洲は貿易庁長官に就任した。当時、海外輸出には貿易庁のライセンスが必要で、その順番を巡って汚職の噂が絶えなかった。占領下の日本のスキャンダルは、マッカーサーの威信に関わることである。汚職摘発に乗り出すべく、マッカーサーが直々に長官として任命したのが白洲次郎であった。
  しかし、白洲が貿易庁に乗り込んでも、汚職を根絶することはできなかった。彼は貿易庁の廃止を決意する。それが汚職根絶の近道であるという判断である。その結果、貿易庁は商工省に吸収され、その商工省が後に白洲の手によって通商産業省に衣替えすることになる。白洲は、貿易庁の粛清に精を出す一方、商工省の改革に取り組み始めた。
  これまで日本には、産業行政があって、次に貿易行政があった。しかし、これからは輸出行政がまず先で、次に産業行政があるべきである。輸出産業を育成し、外貨獲得を強力に推し進める。白洲による日本復興の明確な青写真である。そのために新しい強力な組織機構が必要だ。こうして1949年、第三次吉田内閣で「通商産業省設置法」案が提出され、国会で通過。日本が「貿易立国」に向けて力強く歩み始めた瞬間であった。

爽やかな風

  その後、東北電力会長、荒川水力発電会長などを歴任しながら、1985年11月28日に83年の生涯を閉じた。その生涯に見事なまで一貫しているのは、「素朴な正義心」と呼ぶべき行動規範であった。「困っている奴は助けるもんだ」と言っては、人助けに余念がなかった。それでいて見返りは一切求めない。便宜をはかってもらったお礼に金品を持参したりすることがあると、「馬鹿野郎、俺は大金持ちなんだ。そんなものもらえるか」と怒鳴りつけることが常だったという。
  権力を笠に着て威張り散らす人間には、闘志をむき出しにして挑みかかった。その分、敵も少なくない。彼は言う。「人に好かれようと思って仕事をするな。むしろ半分の人間に嫌われるようじゃないとちゃんとした仕事はできないぞ」と。また私心なく、信念を持った人間を信頼した。私利私欲の強い人間を毛嫌いし、決して付き合おうとはしなかったという。自己の「素朴な正義心」に忠実に生きようとしたのである。
  雑誌のインタビューで「あなたの欠点は?」の質問に、「思ったことを率直に言うこと」と答えている。日本社会では、疎んじられることも多かったのであろう。遺言で葬式は行われなかった。純情で、一本気で、そして照れ屋の白洲次郎は、戦後の日本に爽やかな風を吹き込んだ。そして爽やかに消えていった。



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