杉原千畝 
(すぎはらちうね) 

杉原千畝


ユダヤ人難民6千人にビザ発給 
人としての良心に従う  エルサレムの丘に顕彰碑

 外交官杉原千畝は、ヒトラーに追われたユダヤ人難民6000人を救出した。外務省の指示を無視しての行動で、彼は外務省を辞任せざるを得なくなる。しかし、イスラエルは恩を忘れなかった。勲章を授与し、顕彰碑を建て、彼の勇気ある行為を後世に伝えようとした。

ユダヤ人を救った外交官

  エルサレムの西の丘陵地にホロコースト博物館がある。ナチスによって虐殺された数百万のユダヤ人を慰霊するために建てられたものである。その建物のすぐ近くに平和を祈って植樹された木が多数植えられており、その中の一つに杉原千畝の木がある。約6千人のユダヤ人の命を救った彼の功績を称えて植樹されたものである。
  外交官として、リトアニアの日本領事館に勤務していた1940年夏、杉原はナチスに追われたユダヤ人を救出するため、ビザを発給し続けた。その行為は日本の外務省の意向を無視するものであった。深い苦悩の末、彼は人間としての正義を貫く決断をした。彼は外交官である前に、一人の人間としての良心に従ったのである。

外交官の道

  1900年1月1日、杉原千畝は岐阜県加茂郡八百津町に、父好水と母やつの次男として生まれた。18歳の時、早稲田大学高等師範部英語科に入学、アルバイト漬けの日々を過ごしていた時のことである。「外務省留学生募集」の新聞広告が目に止まった。外務省の費用で語学を学び、外交官になれるという。苦学生であった彼はこれに飛びつき、猛勉強の末、見事合格を果たした。
  外務省から派遣された先は、中国の黒竜江省ハルピン。官費留学生としてハルピン学院でロシア語を学んだ。持ち前の記憶力、集中力でロシア語を瞬く間にマスターして、23歳の時には、ロシア語講師として教壇に立つまでになっていた。24歳の時、正式に外務省書記官に採用され、そのままハルピンに残って通訳として働いた。1932年に満州国が作られると、満州国外交部の北満特派員としてハルピンに残って、ソ連領事館との折衝などを行う。1935年7月、杉原は突然外交部を辞め、日本に帰国してしまった。後に辞任の理由を、「日本人は中国人に対してひどい扱いをしている。同じ人間だと思っていない。それが、我慢できなかったんだ」と話している。
  帰国後、再び日本外務省に勤務を許され、フィンランドの日本領事館に約1年半勤務。その後、1939年8月リトアニアに新設された日本領事館の領事代理(事実上の領事)として赴任した。3年前に結婚した妻幸子と、二人の息子、それと妻の妹を伴っていた。
  杉原がリトアニアのカウナスに着任した4日後、ドイツ軍がポーランドに侵攻。第二次世界大戦が勃発した。40年6月には、ドイツ軍によりパリが陥落、7月にはイギリス攻撃が始まっていた。

ビザ発給の決断

  1940年7月18日の朝、目を覚ました杉原は、異様な光景を目の当たりにした。日本領事館の建物の回りを数百人の群衆が取り囲んでいる。ナチスの虐殺の難を逃れてポーランドから来たユダヤ人だった。幾日もかかって大移動を続け、かろうじてここカウナスに到着したのである。彼らの願いは一つ。ソ連、日本を経由して第三国へ移住するための日本通過ビザを発給してもらいたいということだった。
  しかし、それはそう簡単なことではなかった。4年前の1936年に、日本はドイツと日独防共協定を結んでいた。ユダヤ人にビザを発給すれば、ドイツへの敵対行為と見なされる。さらにソ連はリトアニアに侵攻し、日本領事館に対し退去命令を出していた。
  杉原は、とりあえず5人の代表を選んで話を聞くことにした。もはやヨーロッパにはナチスのユダヤ人狩りを避けることができる国は、どこにもない。とにかく日本に到達したい。そのことだけを考えて、ここまでたどり着いたのである。杉原の一存では決められない。数百、数千のビザとなると当然外務省の許可が必要となる。外務省の判断は、「最終目的国の入国許可を持たない者にビザは発給するな」というもの。予想された回答だった。
  彼らを無視して、退去することも可能であった。しかし、杉原はそれができる人間ではなかった。長い苦悩の末、彼の気持ちは固まった。妻に、「私は外務省に背いて、領事の権限でビザを出すことにする。いいだろう」と言った。「そうしてあげて下さい」。大勢のユダヤ人の命がかかっている。夫婦の気持ちは一つであった。

「一人でも多く救いたい」

  ユダヤ難民が領事館を囲んで11日目の7月29日早朝、まだ暗いうちから、ユダヤ人が集まってきていた。杉原は玄関を出て、鉄柵越しに告げた。「ビザを発給します」。一瞬の沈黙の後のどよめき。群衆の間に衝撃が走った。抱き合ってキスをしあう者、天に両手を広げ感謝の祈りを捧げる者、子供を抱き上げてその頬に口づけする者、誰もが全身で喜びを表していた。
  ビザを発給すると言っても、簡単に済むことではない。一人一人と面接し、手書きの作業となる。時間との戦いである。ソ連からも、外務省からも、領事館退去命令が届いていた。杉原は、それらを無視して、ビザを書き続けた。「一人でも多く助けたい」。この思いが杉原を突き動かしていたのである。
  昼食を取る時間も惜しんで、閉館時間を大幅に延長しての作業が続いた。1日が終わるとぐったりして、そのままベットに倒れ込む。外にはまだ大勢のユダヤ人が順番を待っている。やっと順番が回ってきて、杉原の前に跪き足元にキスをする女性もいた。彼らの辿ってきた苦しい境遇が痛いほど杉原に伝わってきた。何度か「これで打ち切ろうか」と思った。しかし、ここで投げ出せばきっと悔いが残る。痛みで腕が動かなくなっても、渾身の力をふりしぼって彼は書き続けた。
  ビザを書き続けて約1ヶ月後、外務省から「ただちに領事館を閉鎖して、ベルリンに行け」と至急電報が届く。有無を言わさぬ文言であった。ビザ発給を打ち切り、引き揚げざるを得なくなった。外には、まだ数人のユダヤ人が残されている。後ろ髪を引かれる思いで、杉原一家は領事館を後にした。8月26日のことである。
  彼らが向かった先は、カウナスのメトロポリタン・ホテル。すぐに列車に乗れないほど、杉原は疲れ切っていた。しかし、ここにもユダヤ人たちがやってきた。一人でも多く救おうと、杉原は領事館を去る前に、ホテルの名前を貼りだしていたからだ。9月5日、ベルリン行きの列車に乗る時も、集まっていたユダヤ人にビザを書き、列車が走り出しても、窓から身を乗り出して書き続けた。
  列車のスピードが上がり、もうこれ以上書くことができない。杉原は叫んだ。「許して下さい。私はもう書けません。皆さんのご無事を祈っています」。こう言って、彼はホームに立つユダヤ人に深々と頭を下げた。次の瞬間、一人のユダヤ人が列車と並んで走っている姿が目に止まった。「スギハラ、私たちはあなたを忘れません。もう一度あなたにお会いしますよ」。彼は泣きながら、こう何度も何度も叫び続けていた。

28年ぶりの再会

  戦争が終わり、帰国した杉原に待っていたのは、外務省からの辞職勧告。彼は一言も弁解せず外務省を後にした。覚悟していたこととはいえ、たちまち生活は困窮。しかし、語学が堪能であったことが幸いし、進駐軍のPX(進駐軍向けの商店)に職を得た。杉原の第二の人生である。その後、職を転々とした後、1960年に川上貿易モスクワ事務所長として、モスクワでの単身赴任生活が始まった。モスクワ生活は15年の長期に及んだ。
  1968年8月、イスラエル大使館から杉原の家に電話があった。たまたまモスクワから帰国中であった杉原が大使館に出向いてみると、そこに待ちかまえていたのは、ニシュリという名の参事官。彼はカウナスでビザの発給を受けたユダヤ人で、最初に杉原と会談した5人の代表の一人であった。駐日大使館勤務として赴任してきたのである。杉原に会うなり、ニシュリは「これを覚えていますか」と言って一枚のボロボロの紙を見せた。杉原が書いたビザであった。ニシュリは、それを大切に持っていたのである。
  28年ぶりの涙の再会は、これまでにない充実感を杉原にもたらした。こうして目の前に命が救われたユダヤ人が立っている。自分の行為は無駄ではなかったのだ。外務省退職後の苦労が報われた瞬間であった。
  その年、杉原の4男伸生がイスラエルのヘブライ大学に公費留学生として迎えられた。杉原の恩に報いるため、イスラエル政府が招聘したものであった。翌年の1969年9月には、杉原自らイスラエルに招かれた。彼を迎えたのは宗教大臣のバルハフティック。実は、彼もニシュリと共に杉原とカウナスで会談した5人の代表の一人であった。杉原は、ホロコーストの博物館、資料館などが建つエルサレムの西の丘陵地を訪れ、そこに平和の記念樹一本を植えた。そして、バルハフティックから勲章が手渡された。
  1985年11月、エルサレムの丘に杉原千畝の顕彰碑が建てられることになった。病気の杉原に代わって、イスラエル在住の4男伸生が除幕式に出席した。集まったユダヤ人は90人ほどで、みな命のビザで救われた者たちであった。彼らは、伸生に近づき口々に「杉原さんに救われました」と涙を流して感謝の言葉を述べたという。
  伸生から、病床の杉原宛に手紙が届いた。「みな本当に心から感謝している目を見ると、僕はこんなに立派な親を持って幸せだと思いました」。杉原の枕元で、妻の幸子がこの手紙を読んでいると、杉原の目から、とめどなく涙が溢れ出てきた。カウナスを離れるとき、「あなたを忘れない」と叫んだ青年の言葉を思い出していたのかも知れない。
  杉原はつねづね、次のように語っていた。「何も騒がれるようなことをしたわけではない。人間として当たり前のことをしただけだ」。そして、「私のしたことは外交官としては間違ったことだったかもしれない。しかし、私を頼ってきた何千人もの人を見殺しにはできなかった」と。1986年7月31日、杉原千畝は眠るようにして86年間の生涯を終えた。



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