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井深 八重 
(いぶか やえ)

ハンセン病患者に捧げた生涯  
誤診を通して知った天命

 ハンセン病患者に生涯を捧げた井深八重の人生を決定づけたのは、フランス人神父レゼーの存在であった。故郷を離れ、遠い異国の地で、彼は同胞すら見捨てたハンセン病患者に寄り添い、生きる希望を与え続けようとした。八重はレゼーを助け、ハンセン病患者に捧げる人生こそ天命と自覚していく。

井深八重


ハンセン病と診断

 井深八重は、ライ病と呼ばれて忌み嫌われていたハンセン病の患者に、看護婦として寄り添い、その生涯を彼らのために捧げた女性である。彼女のハンセン病との関わりは実に衝撃的であった。22歳の八重が長崎で教師をしていた時、体に赤い吹き出物のような斑点がいくつも現れた。病院での検査結果は、「ライ病の疑いが濃厚」であった。
 今でこそ、ハンセン病は克服された病となっているが、当時は不治の病とされた。人々がこれを「天刑(天の刑罰)の病」と呼んで恐れたのは、顔や体の一部が腐るように崩れ、不気味な姿を晒すからばかりではない。感染力の強い遺伝性の病という誤った俗説が流布していたからである。ひとたび、ハンセン病患者が発生すると、家族はそれをひた隠しにし、土蔵(倉庫)などに閉じ込めて、秘かに死ぬのを待つのである。あるいは患者自身が家族に累が及ぶことを恐れ、放浪の旅に出て、人知れず野垂れ死にをすることもあった。
 井深家といえば、旧会津藩の指折り数えられた名家である。その中からハンセン病患者が出たとなると、一族全体の名誉にかかわることだった。井深家では協議の結果、秘かにハンセン病の病院に八重を預けることにした。人目につかぬところに隠したかったのだ。
 井深八重が伯父と伯母に付き添われて、御殿場市(静岡県)にある神山復生病院にやってきたのは、1919年7月のことである。打ちひしがれていた彼女を迎えたのは、この病院の院長ドルワール・ド・レゼー神父。運命の出会いとなった。


誤診

 病院に入った数ヶ月間、八重は打ちひしがれ、毎晩のように泣き明かした。「何か底知れぬ深みに突き落とされ、果てしない空間の中へ落ち込んでゆく思いでした」と彼女は語っている。しかし、八重は元来芯の強い娘であった。徐々に落ち着きを取り戻していく。その姿にレゼー院長は安堵しつつも、彼女がハンセン病を病んでいるとはどうしても思えなかった。体の斑点も自然に消えているし、体調も良好である。レゼーは再検査を勧めた。
 レゼーの知り合いで東京で開業していた皮膚科の権威、土肥慶蔵博士に見てもらうことにした。1週間にわたる精密検査の結果、「ライではない」と判明。誤診であったのだ。八重は病院に戻り、診断書をレゼーに見せると、彼は微笑んでいった。「あなたはもうここにいる必要はありませんよ。これからどうするか自分で決めなさい。
 それに対し、八重が語った言葉はレゼーを驚かせた。「神父様、もしお許しをいただけるのでしたら、このままここに置いて下さい。ここで働きたいのです」。静かに、しかしきっぱりと彼女は言った。誤診と判明して以来、ずっと考え続け、自然に出てきた結論だった。彼女は、すでに心を決めていたのである。


家族を感じる

 神山復生病院に戻る前に、八重は診断書を携え東京の親戚の家を訪れた。この朗報に親戚一同は歓声を上げて喜び、すぐにでも帰宅するよう促した。しかし、彼女の心は複雑だった。約3年間に及ぶ病院生活は、彼女の心に大きな変化を引き起こしていたのである。
 特に院長レゼーの日常は、彼女の心を揺さぶらずにはおかなかった。故郷フランスを離れて46年、すでに70歳を越えていた。彼は同胞ですら顧みなかったハンセン病の患者たちに、「わが子よ」と呼びかけ、病室や作業中の患者たちの輪に入っていく。そして明るい声で冗談を言い、みんなを笑わせていた。この時ばかりは、患者たちも我が身に生じた不幸を忘れるのである。どうしたら彼らを幸せにできるか。そのことのみに心を砕くレゼーの姿に触れ、彼女は心打たれるばかりであった。
 八重は寂しい少女時代を過ごしている。父の彦次郎は家庭を全く顧みなかった。中国大陸に渡り、貿易商を営むかたわら、諜報活動に従事。自分の夢だけを追いかけながら生きた人物であった。そんな夫に見切りを付けたのか、母テイは、7歳の八重を残して、井深家を去ってしまう。幼い八重は、伯父(父の兄)に当たる井深梶之助の家に厄介になった。
 八重の両親に対する記憶は、きわめて乏しいものであった。だからこそ、父母や家族に対する憧憬は人一倍強かった。彼女は、レゼーの姿に父母を見出し、患者同士、支え合いながら生きる姿に家族の営みを感じていたのだろう。薪割り作業の場では、比較的元気な患者は、手や目の不自由な人の分までやってあげる姿を見た。また、わら打ちの現場で見たのは、目の見えない患者がわらを打ち、そのすぐ後ろで別の一人がその盲目の患者の肩を叩いてあげている姿であった。こうした日常的な光景を見るたびに、八重の胸に熱いものがこみ上げてきた。3年にわたる神山復生病院での生活により、少女時代の心の空白は、徐々に埋められていったように思われる。


「空ならざるもの」

 八重の決断に影響を与えたと思われるもう一人の人物がいる。1年ほど前に入院していたハンセン病患者、本田ミヨである。レゼーの配慮で、八重の話し相手とされた女性である。教養を備え、八重と年齢が近い同性の先輩であったからである。
 ミヨの症状は急激に悪化していた。赤い斑点が全身に広がり、顔も崩れかかっている。しかし、八重を驚かせたことは、顔が崩れかかっているというのに、それに抗うかのように、彼女の顔には清らかな輝きが増してくるのであった。変形した顔は安らぎをたたえているようで、気高くすら感じられるのである。
 ミヨは八重に繰り返し語った。「肉体はたとえ崩れても、大切なのは魂なのよ」と語り、この世よりも永遠の世界の価値を説いて聞かせた。崩れゆく肉体、この冷酷な現実の前に少しも屈することなく立ち向かっている。そんなミヨに、八重は魅せられていくのである。
 レゼーが繰り返し口にしていたバイブルの言葉がある。「空の空、空の空、いっさいは空である」(「伝道の書」より)。形あるものの空しさ、はかなさを説いており、ハンセン病患者にとっては、リアリティを伴って迫ってくる言葉であった。やがてミヨのように、自分の肉体も崩れていく。その空なる肉体に依存してはいけない。ミヨとの出会いを通して、八重の心には、「空ならざる確かなもの」を希求する心が芽生え始めていた。
 東京から戻る途中、3年間の病院での日々をあれこれ思い浮かべながら、車窓の景色を眺めていた。御殿場に近づき、懐かしい雑木林が目に飛び込んできた時である。八重は思わずつぶやいた。「帰ってきたわ!ここが私のいるところ、私が生きるところ」。レゼーのもと、本田ミヨや患者たちに寄り添いながら生きることこそ、自分の役割であると素直に思えたのである。誤診という数奇な運命を経験したことも、心から納得できた。


看護婦として
 
 八重は看護婦として働くことを決めていた。東京半蔵門にある看護婦学校の速成科に入学し、看護婦資格を取得してしまう。看護婦として正式に勤務することになっても、実態は雑役を兼ねていた。看護婦本来の仕事の他、洗濯、裁縫、炊事、草むしりなど何でも手伝った。もちろん、まともな給料などもらっていない。しかし、不満はなかった。それらを過重と思うこともなかった。
 患者の存在が励みになっていたのである。絶望に沈み込んでいた患者たちの苦しみを、ハンセン病とされた経験を持つ彼女だからこそ、わかってあげられた。八重を通して生きる希望を見出していく患者の姿が、どれほど彼女に力を与えたことか。
 山梨県の山村に一人のハンセン病の患者を迎えに行ったときのことである。患者は、人目に触れることのない土蔵の中に隠されていた。ネズミに噛まれて傷だらけの足。傷口に消毒液を入れようとすると、ウジ虫が出てくる。よく見てみると体中にウジ虫が湧いており、眼の中からさえも湧き出てきた。八重の目から涙が滂沱のように流れ落ち、狂ったようにウジ虫を殺し続けたという。人間として扱われてこなかったこの患者の身の上を思うと、泣けてしかたがなかったのである。


命果つるまで

 井深八重は、1989年5月15日に91歳で生涯を閉じるまで、看護婦としてハンセン病患者に寄り添って生きてきた。まさに命果つるまで続いた奉仕と献身の人生であった。彼女も一人の人間である。「心の中で、後悔したことは何度もあった」と告白している。特に、患者の患部から発せられる何とも言えない悪臭には閉口した。赤い血の混じったウミが固まり付いた包帯を取り替えるときや、洗濯するときなどには、鼻を刺す臭気で息が詰まりそうになる。病院から逃げ出そうと思ったことは、一度や二度ではなかったという。
 それでも彼女を病院にとどめたものはいったい何だったのか。その一つは老院長レゼーの存在だった。異国の地で、同胞ですら見捨てた患者たちに献身的に世話をしている。そんなレゼーに対し、日本人に代わって恩返しをしたかった。レゼーを思えば、自分の苦痛は何でもないことのように思えたのである。
 それと本田ミヨとの約束があった。ミヨが43歳の若さで息を引き取る少し前、息も絶え絶えに八重に告げた一言。「あなたは最後までここにいるのよ」。この言葉は八重の胸に深く刻まれ、彼女はそのように生きようとした。それをミヨの言葉としてではなく、「目に見えない確かな存在」が、ミヨの口を通して彼女に伝えたように受けとめたのである。
 それに患者たちは自分を必要としている。彼らの苦痛を受けとめ、手を差し伸べずにはおられなかった。土蔵に投げ置かれていた患者が、彼女たちの献身的なケアで赤ん坊のようなつややかな肌に戻り、顔に清らかな輝きを取り戻していく。最も嬉しい瞬間である。その姿に接するたびに、レゼーが感動のあまり泣き出し、八重も一緒に泣いた。「こんな素晴らしい体験をするのだから、逃げ出さずに居ようと思い返すのです」と述べている。
 八重の墓には、「一粒の麦」という墓碑銘が刻まれている。「一粒の麦は地に落ちて死ななければ、一粒のままである。しかし死ねば、多くの実を結ぶ」という自己犠牲の精神の尊さを説いたイエスの言葉である。ハンセン病患者の幸せのために、自分の生涯を犠牲にする道を選んだ八重の人生を象徴する言葉であった。



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