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金栗四三

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金栗四三 
(かなくり しそう)


日本マラソンの基礎を築く 

日本人初のオリンピック参加   敗北を勝利に換える

 日本人初のオリンピック選手の金栗四三は、参加したマラソン競技で途中リタイア。屈辱以外の何ものでもなかった。しかし、全てはここから始まった。今日、日本長距離界の興隆は、彼の挫折体験を起点としていると言っても過言ではない。敗北は勝利に換えられる。彼の人生はそれを示している。


日本マラソンの父


 東京・箱根間を往復する大学駅伝(箱根駅伝)は、お正月の風物詩として定着している。往復10区間の約109キロを10人でタスキを渡して走り抜けるレースである。今年は青山学院大学が4連覇を果たし、話題をさらった。最優秀選手に選ばれたのは、青学の林奎介選手で、「金栗四三杯」が授与された。この賞は、「日本マラソンの父」「箱根駅伝の父」と評された金栗四三の功績を称えるために設けられたものであった。



金栗四三

玉名市ホームページより


 箱根駅伝はもとより、日本マラソンの歴史は、金栗四三抜きに語ることはできない。しかし、彼のマラソン人生はバラ色に彩られたものではなかった。日本人最初のオリンピック選手としてストックホルム大会(1912年)に参加したものの、そのマラソン競技で脱落、そのまま消えてしまった。スウェーデンでは、突然「消えた」選手として長く謎の人物とされていたという。この敗北と挫折、そして屈辱。全てはここから始まった。日本の長距離走界の黎明は、彼のこの挫折体験から始まったと言って過言ではない。
 日本のマラソンレベルは、欧米の水準にはほど遠いと気付いた彼は、体位の向上と基礎体力の充実が必要と考えた。それには体育の振興しかなかった。自ら練習に励む傍ら、後輩の指導、そしてマラソンの啓蒙活動に尽力した。そもそも駅伝を始めたのも、たくさんのマラソン選手をいっぺんに養成するために一番良い方法だと考えたからだ。金栗四三は日本のマラソン興隆の基礎を築いた人物なのである。



日本人初のオリンピック代表

 金栗四三が生まれたのは1891年8月20日、熊本県春富村(現在の和水町)。四三は8人兄妹の7番目で、小さい頃は病弱で泣き虫だったという。日本を代表するマラソンランナーになる素質が現れ出したのは、高等小学校に通い始めた頃からであった。高等小学校は彼の家から片道6キロの距離のところにあり、その村の通学生は一団となって、行きも帰りも走ることになっていた。四三にとってその通学走行は苦痛以外の何ものでもなかった。しかしある時、一つの発見をした。息を吸う時も、吐く時も、リズムをつけて2度ずつ分けて呼吸すると楽に走れる。この発見で通学が楽しくなり、他の仲間より早く登校することができるようなった。
 この自信が成績にも反映した。クラスでは常にトップレベルとなり、県立熊本中学玉名分校(現在の玉名高校)に入学を果たした。ここでも成績優秀につき、特待生となった。全教科95点以上の者が受ける資格であり、学費、寮費が免除された。父が亡くなった直後のことであり、逼迫した家計を助けることができたことを彼は心から喜んだ。
 その後、彼は東京高等師範学校(略して東京高師、現在の筑波大学)に入学する。国費で行ける学校だったからだ。この学校の校長が嘉納治五郎、講道館柔道の創始者である。嘉納はスポーツが道徳心を育てるという信念の持ち主であった。そのため全生徒にいずれかの運動部に所属することを求めていたし、年2回、全校生徒が参加する長距離競争大会が設けられていた。これには嘉納校長自らが生徒と一緒に走るほどの熱の入れようだった。
 四三は入学直後の長距離競走では25番、秋には3番になった。高等小学校時代、往復12キロを走り込んだ経験が生かされたのである。校長は、「下級生ながら3位とは立派だ」と彼を褒めてくれた。2年生の春の大会では優勝。以来、彼に敵はいなかった。
 四三が長距離走者として脚光を浴び始めた頃、校長の嘉納治五郎のもとにフランスのクーベルタン男爵から一通の手紙が届いた。近代オリンピックの父と呼ばれたこの人物は、日本からオリンピック選手の参加を要請してきたのである。嘉納には強い思いがあった。「これを機に全国に体育思想の普及を図り、国民的な運動に結びつけたい」。そして、その予選会が1911年11月に開催され、全国から四三を含む91名が参加。日本代表に選ばれたのは二人。短距離走の三島弥彦と金栗四三である。四三のマラソン選考会での成績は、当時の世界記録を27分も縮めるものだったため、周囲の期待は大きく膨らんだ。



ストックホルム大会

 1912年7月に開催されたストックホルム大会は、日本人が初めて参加したオリンピックであった。7月14日のマラソン当日、四三は悲壮なる決意でスタートラインについた。日本運動界の全責任を帯びている。勝たなければ死すの覚悟であったという。100メートル走に出場した三島は早々と予選落ち。最後の期待は四三だけとなっていた。
 しかし、四三を取り巻く環境条件は過酷なものであった。ストックホルムでの練習期間は1ヶ月以上あったが、コーチはいない中での猛練習。疲れが溜まってしまった。食べ物は合わない。白夜のため睡眠不足。その上、当日は日陰でも32度を越す猛暑。さらに不幸だったのは、マラソン当日、ホテルから競技場までタクシーが取れない。電車も満員。市民はみな競技場に向かおうとしていたのである。結局、四三らは急ぎ足で歩いて会場に向かった。ギリギリ間に合ったものの、体力はかなり消耗していた。
 スタートした68人が競技場を出た時、四三はビリだった。彼はあわてて無理にピッチを上げた。これでペースが乱れてしまった。折り返し地点に差しかかる頃までには、30人ほど追い抜いてはいたものの、無理に無理を重ねていた。コースは傾斜が多く曲がりの連続。強い日差し。足が痛み、汗が目に入る。約20キロの苦闘の末、折り返し地点は歩くのですら大変な急勾配。坂を登り切ったあたりから、四三の意識は薄れていった。
 そして、突然彼は姿を消した。彼はコース沿いのペトレ家の庭の白樺林に迷い込んで、そのまま意識を失い倒れ込んでしまったのである。今で言う熱中症だったに違いない。その彼をペトレ家の人々は必死に介抱して、意識を取り戻した後は飲み物や食べ物で元気づけてくれたという。もちろん走れる状態ではなく、途中落伍という惨めな結果で終わった。
 宿舎に戻った四三に「何たる意気地なしか。大和魂はどこに捨てたか!」と怒声を浴びせる者もいた。彼はうなだれるしかなかった。しかし、彼を慰め励ましたのは、団長の嘉納治五郎の言葉であった。「落胆してはいけない。結果は予想通りだ。しかし、外国の技術を学び、大きな刺激を得たことは大成功と思う」。続けて「日本マラソン界のために心血をそそげ」と言った。
 彼は手記に次のように書き留めた。「この重責を全うすることができなかったことは、死してなお足りないことだ。しかし死は易く、生は難い。その恥をすすぐために、粉骨砕身してマラソンの技を磨こう」と。彼は心に誓った。多くの人々がマラソンに興味を持ってもらうには、その機会を増やすことから始めようと。全てはこの誓いから始まった。



箱根駅伝

 東京高師卒業後、その研究科に進み、自ら練習に励みながら後進の指導に熱を入れた。そればかりではない。高師の先輩や関係者、さらには全国の校長に手紙を書き送った。その趣旨は、マラソンを通して体力と気力を養うべきだというもの。反応があった学校には自ら出向いて実地指導にあたった。3年間で訪れた学校は60校に及んだという。
 駅伝競走を企画したのは、オリンピックでの屈辱体験の5年後、獨協中学の教師となっていた時期であった。「東海道五十三次駅伝競走」として、京都から東京までの516キロを昼夜を通して走ろうという。たくさんのマラソン選手をいっぺんに養成するには、これが一番と考えた結果であった。これが1920年には、東京箱根間往復大学駅伝競走となって、現在に至っているのである。
 駅伝ばかりではない。富士登山マラソン競争を企画し、自らもそれに参加した。また、樺太・東京間を後輩の秋葉祐之と組んで20日間で走破した。1日平均8時間を走ったことになる。全ては啓蒙のためであった。自分の走る姿を見て、ランニングに興味を持った若者の中から、世界で勝てる選手を送り出したい。その一念であった。それが国に尽くす道だと信じ、愚直に貫いたのである。
 1967年、ストックホルムから嬉しい知らせが、四三のもとに届けられた。ストックホルム・オリンピック大会(1912年)の55周年記念行事に金栗四三を招待したいという。当時の記録を調べた結果、金栗選手はスタジアムの門を出たことは確認できた。しかし、ゴールインはしていない。かといって棄権にもなっていない。つまり、記録上彼はまだ走り続けていることになる。それを完了させてあげたいという思いからの招待だった。

金栗四三ゴール

玉名市ホームページより


 75歳の四三はストックホルムを再訪した。四三は、オリンピック委員会がスタジアムに準備した正式のゴール・テープを切った。アナウンスが告げた。「日本の金栗四三選手、ただいまゴールインしました。タイム、54年と8ヶ月6日5時間32分20秒3」。そして「これをもちまして、第5回ストックホルム・オリンピック大会の全日程を終了いたします」。四三はインタビューに答えて言った。「長い道のりでした。その間に子供6人、孫10人できました」。会場から笑い声と、大きな拍手が湧き起こったという。
 1983年11月13日、92歳で人生の幕を閉じるまで、走り続けた生涯だった。墓所には、彼の人生を象徴する言葉「体力・気力・努力」と刻まれた記念碑が建っている。ストックホルム大会では敗者となったが、人生の敗者ではなかった。敗北は勝利に換えられるということを生涯をかけて証明してくれた。まさに人生の完走者であった。


 


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