小林 一三
(こばやし いちぞう)
阪急東宝グループの創業者
「人間の宝は事業」 大衆目線の平凡主義
常に時代の先を読み、知恵とアイディアで次々と新事業を成功させた小林一三は、「金がないからできない」という人間を嫌った。「そういう人間は金があっても何もできない人間だ」と言って退けた。「無から有を生み出す男」と言われた所以である。常に大衆の目線に立ち、夢を与え続けた事業家であった。
夢を与えた実業家
大阪の梅田から宝塚方面に向かって阪急宝塚線が走っている。この沿線は、現在ではすっかり高級住宅街のイメージが定着しているが、もともとは人家もまばらな田園地帯であった。ここに鉄道を敷設し、さらに宅地開発を行うという、新しいビジネスモデルを実現させた人物こそが、小林一三である。彼の功績はそればかりではない。宝塚ファミリーランド、宝塚歌劇、阪急百貨店、東宝など次々に新規ビジネスを立ち上げていった。これらの事業は、人々を驚かせ、夢を与え、豊かな暮らしを提供することに貢献したのである。
一三は1873年1月3日、山梨県巨摩郡河原部村(現在の韮崎市)に生まれた。一三の名は彼の誕生の日に由来する。父の甚八は造り酒屋兼質屋を営んでおり、韮崎界隈では有数の商家であった。経済的には豊かであったが、決して恵まれた環境ではなかった。母のフサは一三を生んだ7ヶ月後に、乳飲み子の一三と3歳の姉たけよを残して病死。さらに養子として婿入りしていた父甚八は、2人の子どもを残して実家に戻ってしまった。
幼い2人の子を引き取って育ててくれたのは、本家の大叔父夫妻。一三にとって幸いだったのは、大叔父夫妻は、自分たちの6人の子どもと分け隔てなく、わが子同然に扱ってくれたことだった。しかし、周囲にとっては決して歓迎される存在ではなかった。2人を居候呼ばわりする者すら現れた。しかし、そのことは一三に強い独立心を植え付け、実業家として大成する一つの要因となったように思われる。
岩下清周(きよちか)との出会い
一三が慶應義塾に入学するため上京したのは、15歳の時だった。学生時代、一三は育った複雑な家庭環境のせいか、文学にのめり込んでいく。学校の勉強に興味を示さず、芝居小屋に通い詰め、奇術、手品などにも心を奪われる。いわゆる典型的な軟派学生であった。仕送りはほとんどこうした遊興費に消えたようだ。しかし、こうした破天荒な経験も、後に宝塚歌劇や東宝を設立する素地となっていくのだから、人生は面白い。
慶大卒業後、三井銀行に職を得た一三は、彼の人生を決定づけた人物と出会った。大阪支店にいた時、支店長として赴任してきた岩下清周である。岩下には信念があった。日本が一流国になるには社会資本の充実が不可欠であり、そのためには銀行が大規模事業に積極的に融資するべきだと考えていた。一三はそんな気宇壮大な岩下にすっかり心酔し、ついていこうと決意するのである。そして事業経営の面白さを彼から教わった。
しかし、貸し出し限度枠を越えた融資が問題視され、本社の指示にも従わなかった岩下は、着任わずか1年で横浜支店に左遷。岩下は憤然として辞令を叩きつけて退職。その後大阪北浜銀行を設立していくのである。この北浜銀行も過剰融資の結果、後に取り付け騒ぎを起こしてしまう。一三は、岩下を大人物として畏敬の念を抱き、生涯尊敬し続けたものの、彼の危うさも見逃さなかった。後に一三は「百歩先の見える者は狂人扱いされ、十歩先の見える者が成功者となる」と語り、岩崎の人生を教訓とした。
一三が三井銀行を退職したのは1907年1月のこと。北浜銀行を率いる岩下が新しい証券会社を設立するという。そこの支配人にという誘いであった。一三はこの話に飛びついた。しかし、あろうことか三井銀行を退職した2日前、株式市場が大暴落。これで新証券会社の設立の話は露と消えた。
岩下は言った。「君にはすまないことをした。よかったら、新しい鉄道会社設立の仕事を手伝ってくれないか」。梅田から池田、そして宝塚を通って有馬まで。さらに箕面への支線までも視野に入れ、ここに蒸気ではなく、電車を走らせる計画だという。これが箕面有馬電気鉄道会社(箕有電鉄、後の阪急電鉄)である。専務取締役に就任した一三の鉄道事業との関わりが、こうして始まったのである。一三は弱冠34歳であった。
彼がまず始めたのは、梅田から池田までの計画路線を歩いて、見ることだった。2度も歩いてわかったことは、この沿線は田んぼと畑がほとんど。人口は絶望的に少ない。歩いている時、突然ある思いが閃いた。「沿線に住宅地を開発し、それを分譲してみてはどうだろうか」。逆転の発想である。乗客がいなければ作ってしまえばいい。さらに土地を安く購入し、それを開業後に分譲すれば儲けも大きい。一石二鳥である。経営者小林一三の第一歩はここから始まった。
宅地分譲開始に先立って、一三は得意の文章力で宣伝文を自ら考えた。「空暗き煙の都に住む不幸なる大阪市民諸君!行け!北摂の風光佳景の地に!」。現代人にとっては少々扇情に過ぎる文句であるが、当時の人々の心をわしづかみにした。また全国で初の10年の割賦販売で売り出したこともあり、最初の分譲は予想に反して完売。その上、阪急沿線が高級住宅地というイメージが定着。一三の街作りが見事に成功した。10年後、神戸線の開通時、一三は新聞に驚くべき広告を載せた。「綺麗で速くて、ガラアキで、眺めが素敵で涼しい電車」。自分の電車をガラアキと宣伝するのは前代未聞のこと。いつも混んでいたライバルの阪神電車を意識したとはいえ、一三の発想はいつも常識を越えていた。
大衆の目線
箕有電鉄の開設後、一三の事業意欲は留まるところを知らない。箕面のターミナルを行楽地にしたいという抱負を抱き、敷地面積3万坪に及ぶ動物園を開園。その直後に宝塚新温泉(後の宝塚ファミリーランド)の営業を開始。その2年後にタカラジェンヌで有名な宝塚唱歌隊(後の宝塚歌劇団)を組織してしまった。これら一三のアイディア商法で、ひなびた田舎町に過ぎなかった宝塚には、商店や旅館が次々と新築され、活況を呈したのである。電車の乗降客数が大幅に増加したことは言うまでもない。
経営者としての一三が常に口にしていた言葉がある。「私の仕事は大衆相手の平凡なもの」。大衆のニーズを的確に捉えただけ。これを平凡主義と呼んだ。たとえば電車で通勤した彼は、乗ると必ず運転席の後ろに立ち、運転手の仕事だった前部ドアの開閉を手伝った。一三が立ちっぱなしでドアの開閉を手伝っているのに、他の社員が椅子に座ることはできない。通勤時の電車では社員は腰をかけないという不文律ができあがったという。
また、一三は大学卒のエリートの新入社員でも、まず切符きりからやらせ、車掌、運転手を経験させた。下積みの経験あってこそ、お客に自然に頭を下げることができるし、顧客の目線、大衆の目線でものを考えることができるという彼の信念からであった。
一三の独創性の一つに、梅田駅に阪急百貨店を開業したことが上げられる。鉄道会社が直営で百貨店を経営するというのは、今では当たり前となっているが、当時は海外でもなかった時代である。その百貨店に併設された大食堂で、一三の大衆目線をうかがわせるエピソードがある。人気メニューはカレーライスだったが、そのカレーの上にかけてもらうために、ウスターソースを卓上に置いていた。すると、ライスだけを注文して、それにソースをかけて食べる客が出てきた。これでは儲けが出ない。迷惑な客である。食堂側は当然のごとく、「ライスだけのご注文はご遠慮ください」と貼り紙をした。
それを見た一三は、現場の担当者を叱りつけ、「ライスだけのお客様歓迎します」と貼り替えさせたという。不満げな現場担当者に言った。「彼らは今は貧しい。しかし、いずれ結婚して子どもを産む。その時、ここで過ごしたことを思い出して、家族を連れて来るだろう」。一三の目は、常に一般大衆に向けられていたのである。
自由を愛す
自由な発想により成功した一三は、誰よりも自由を愛した。それ故、戦前の統制経済には激しく反発した。周囲の予想に反して、近衛内閣の商工大臣を引き受けたのも、革新官僚の統制経済をひっくり返してやると意気込んでのことだった。
また、彼の自由はモラルと責任を伴うもので、利益追求だけに汲々とする欲得ずくとは一線を画していた。63歳の一三が秘書役の清水雅と欧米視察旅行に出かけた時のことである。日本を目前にした帰途、船の中で一三は清水の労に報いて、残った旅費の中から幾ばくかの金をボーナスとして与えた。喜んだ清水に「どう使うつもりかね」と一三は尋ねた時、清水は「○○社の株でも買いますかね」と軽い気持ちで答えた。
その時である。一三は烈火のごとく叱りつけた。少し前に、○○社の極秘書類を読ませていたからである。「君は一人で先取りするつもりか。私はこれまで、他人よりも先に物事を知っていても、それで儲けたことは一度もない。人間の宝は金ではない。事業なのだ!」。この説教は1時間に及んだという。清水は後に語っている。「その時に受けた感銘は、私の一生の中で最も大きなものであった」と。
一三は生涯、相場には一切手を出さなかった。経営の中心は事業であると確信していたからである。競馬、競輪など賭け事もしたことがないと言うから、徹底している。あぶく銭を嫌ったのである。一三は語っている。「出世の道は信用を得ること。その信用を得るには、正直であることと礼儀を知ることである」と。
1957年1月25日、84歳の一三は静かに息を引き取った。葬儀は宝塚大劇場において執り行われた。会葬者は約4千名。大阪中のタクシーが宝塚に集まったと言われた。舞台には一三が愛した音楽学校の生徒310名が勢揃いし、宝塚交響楽団がショパンの「葬送行進曲」を演奏。厳粛な雰囲気の中、希代の事業家小林一三を見送った。
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