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近藤兵太郎

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近藤兵太郎 
(こんどう ひょうたろう)

台湾野球史に残る名監督 

三民族混成チームで準優勝   武士道精神の野球道

 戦前、日本の統治下にあった台湾で、近藤兵太郎は嘉義農林学校の野球部監督として、大和民族、漢民族、原住民(高砂族)の混成チームを作り上げ、甲子園大会(全国野球大会)で準優勝を果たした。彼は民族の差を全く問題視せず、努力と才能だけを問題にして傑出したチームを作り上げたのである。


武士道精神野球


 2014年10月6日、近藤兵太郎の故郷である愛媛県松山市で、彼の栄誉を称える顕彰モニュメントの除幕式が行われた。主催は台湾野球交流事業「近藤兵太郎をたたえる会」実行委員会であった。兵太郎は日本統治下の台湾に渡り、弱小の嘉義農林学校野球部を甲子園に導き、準優勝を果たした名監督、台湾野球史に名を残した人物である。顕彰碑の大きな土台には、「霊正しからば球また正し、霊正しからざれば球また正しからず」と刻まれている。兵太郎が選手たちに常日頃から言い続けていた言葉であった。



近藤兵太郎 写真ghp


写真提供:近藤兵太郎をたたえる会  実行委員会 林司朗氏


 近藤兵太郎は1888年7月17日、松山市の萱町に鉄治とフサの長男として誕生した。父の仕事は生活物資を販売する小売業。14歳の時、愛媛県立商業学校予科(後の松山商業学校)に入学した兵太郎は野球部に入部した。ここに現れたのが杉浦忠雄、松山出身で一高(現代の東大教養学部)の野球部で名遊撃手と言われた人物であった。杉浦は休暇で帰郷した際、野球部の指導をしてくれた。杉浦の指導は、技術面よりも精神の強さを重視する武士道精神野球で、精神7割、技術3割という考えであった。兵太郎はこの野球精神の後継者となったのである。

 松山商業学校を卒業した兵太郎は、家業にいそしむかたわら、請われて母校の野球部の先輩コーチとして指導した。兵太郎の情熱とその誠実な人柄に深い感銘を受けた校長は、兵太郎に監督になって部員を指導してくれるよう要請し、彼はそれを引き受けた。29歳の時である。家業を続けながら、放課後に学校に顔を出して野球部員を指導する生活が始まった。彼は三つの目標を掲げ、部員たちに伝えた。第一は松山中学を倒すこと。第二は四国の覇者になること。第三が全国の覇者になること。

 武士道精神野球を標榜する兵太郎は、精神的に強い選手に育てることを第一に置いた。彼は日蓮(日蓮宗の開祖)に深く傾倒していたので、たとえ島流しにあっても、強固な意志力で初志を貫徹した日蓮の話を選手たちによく聞かせていた。技術面では実に基本に忠実な練習を繰り返し、ランニング、キャッチボールを欠かさないよう徹底した。監督としての兵太郎の活躍は目覚ましく、就任1年目に松山中学を倒し、2年目には四国の覇者となって全国大会(後の夏季甲子園大会)に出場するという快挙を成し遂げた。



嘉義農林野球部を指導


 兵太郎が日本統治下の台湾行きを決意するのは、経済的な理由からだった。台湾で教師をしている親戚が、台湾で教師をすれば6割の加俸が付くと言って移住を勧めた。困窮に苦しんでいた兵太郎一家は台湾への移住を決断したのである。学校は兵太郎の監督としての才能を惜しみ、後任が決まるまで台湾に在住しながら監督を続けてくれるようにと切望した。夏休みだけ松山に戻って直接指導してくれればいいと言う。こうして、台湾の嘉義で教員をするかたわら、松商野球部の監督もそのまま続けることになってしまった。こうした二重生活は大変ではあったが、嬉しくもあった。野球をこよなく愛していたし、松商の全国制覇の目標がまだ未達成であったからである。

 兵太郎が最初に勤めたのは、台湾南西部の嘉義市にあった嘉義第一公学校。その後、嘉義商工補習学校に転勤し、簿記を教えた。そして約束通り、毎年夏休みには、松山に帰り野球部の指導にあたった。変則的な指導ではあったが、松商は四国では常勝チームとなり、全国大会に連続出場し、ついに、1925年春の選抜甲子園大会で優勝。全国制覇の念願が達成されたのである。これを機に兵太郎は松商野球部の監督を辞任した。

 兵太郎が野球から手を引いて3年目、嘉義農林学校が兵太郎の噂を耳にした。松商野球部を6回連続甲子園に出場させ、全国優勝まで導いた監督だという。その頃、嘉義農林は、野球部を強化したいと考えていた。白羽の矢が立ったのが兵太郎だった。

 指導に当たったのは、商工補習学校で簿記の授業終了後の放課後であった。40歳の新しい出発となる。兵太郎は部員を前にこう言った。「近い将来甲子園に行けるチームにする」。しかし、「甲子園とは何ですか?」。これが部員の反応だった。甲子園を知っている者は、誰もいなかったのである。

 兵太郎は、ここでも基礎練習を徹底した。ランニングとキャッチボール。それと武士道精神野球である。「どんなにピンチになっても諦めるな。諦めない限りチャンスは来る」。また礼儀を重んじた彼は、「球場は神聖な場所である。入る前に必ず一礼し、感謝を忘れるな」と繰り返し語った。ただ勝てば良いとする考えを彼は嫌った。部員たちに武士道的野球、「野球道」を教えようとしたのである。

 嘉義農林野球部の特徴は、日本人、漢人、それに高砂族と呼ばれていた原住民との混成チームであることだった。兵太郎はこのことに大きな可能性を感じていた。原住民は足が速い。漢人は打撃がすぐれている。日本人は守備がうまい。彼らをしっかり指導すれば、理想的なチームができると確信した。

 元来、兵太郎は民族の違いで差別する性癖は全く持ち合わせていなかった。野球に対する情熱が最優先される。あとはそれに見合った身体能力を身につければ良いのである。それには、とにかく努力することだ。「努力したからといって、報われるとは限らない。しかし、努力しない者が報われることはない」。兵太郎が好きな言葉であった。民族の差で人を差別することはなかったが、努力しない人間は好きではなかった。こうして、兵太郎は部員たちを実に短期間に鍛え上げ、傑出したチームに育てていくのである。

 コーチに就任した2年目で、全島中学野球大会で準優勝の快挙をあげ、兵太郎は監督に就任した。その翌年(1931年)、ついに念願が達成した。甲子園の出場をかけた大会で、見事優勝、甲子園行きの切符を手にしたのである。この勝利はこれまでの二つの常識を打ち破った。台湾野球は北部に比べ、南部は遅れているという常識、それと混成チームは勝てないという常識をである。彼らの勝利で、以後混成チームを笑う者は消えた。



甲子園へ


 いよいよ甲子園である。全員が日本内地(植民地以外の日本)は初めてだった。5万人を収容する甲子園球場の大きさに圧倒されながらも、嘉義農林の選手たちの活躍は目覚ましかった。彼らはベスト4まで勝ち続けたのである。台湾代表でベスト4まで行ったチームはそれまでなかった。勝ち進んだ要因の一つは、漢人の呉明捷投手の功績である。足を大きく振り上げ、そのまま上半身ごと打者に向かって投げ下ろす。その球には威力があり、打者を圧倒した。

 台湾では街角のラジオの前に群衆が集まり、遠い甲子園に声援をとどけた。さらに日本中に嘉農ブームがわき起こり始めた。日本人、漢人、原住民の混成チームが見事に融和し、戦い続けている。それに兵太郎の教えの通り、彼らは全力で走った。たとえアウトとわかっていても、ヘッドスライディングでベースめがけて突っ込んでいく。その姿に観客は感動し、嘉農への声援を惜しまなかった。新聞各社も嘉農びいきの記事を書くほどであった。

 準決勝の相手は小倉工業。10対2で快勝したものの、呉投手が右手指に異常を感じた。力が入らないのである。心配する兵太郎に呉は言った。「大丈夫です監督、明日も投げます」。これを聞いて、兵太郎は最後まで呉で行くと決断した。

 中京商業との決勝戦は大観衆で埋まった。遠く台湾から来て、しかも混成チームである嘉義農林に対する人気はすさまじかった。スタンドはまるで嘉農の応援一色の様相を呈していた。しかし、ピッチャー呉の状態は最悪。人差し指の爪には血が滲み、痛みが走っていた。変化球に切れがなくなり、中京商業の打線についに捕まってしまった。しかし、呉はこの時も「監督、投げさせて下さい」と懇願した。

 4対0で迎えた嘉農の最後の攻撃の時、スタンドの観衆は大声援を送った。「カノウ、カノウ」の大合唱である。結果は、相手投手の前に打線は沈黙。完封負けであった。しかし、翌日の 新聞は嘉農の健闘を報じ、「天下の嘉農」と讃えた。小説家菊池寛は、「涙ぐましい三民族の協調」と題して、新聞に観戦記を載せた。「僕は初戦から嘉義農林びいきになった。内地人、本島人、高砂族という違った人種が同じ目的のため協同し努力しておるということが、何となく涙ぐましい感じを起こさせる。実際、甲子園に来てみるとファンの大部分は嘉義びいきだった」と感動を伝えている。

 試合後、嘉義に戻った選手たちの凱旋を地元は熱狂をもって迎えた。台湾南部から初めて甲子園に出ただけではなく、甲子園で準優勝まで果たしたのである。このことは、嘉義だけではなく、台湾全土に自信と誇りを持たせたことは間違いない。そして、台湾の子どもたちに夢を与えた。原住民であろうと、漢人であろうと、頑張れば頂点を目指せるという夢を。

 その後、終戦となり兵太郎一家が台湾を去る時が来た。引き揚げの準備をしていると、多くの教え子たちがやってきて別れを惜しんだ。その中の一人に、三番遊撃手として活躍した上松耕一がいた。原住民で本名はアジマツで、それを「あげまつ」と名乗っていた。彼は家族と一緒に写した一枚の写真を兵太郎に渡し、「日本に帰っても、私たちのことは忘れないで下さい。私も監督さんのことは一生忘れません」と言って泣いた。彼には思い出があった。甲子園大会に出る時、肌の色が黒いのを気にして、「内地に着いたら、白粉を塗りたい」と言ってきた。「顔を白くしたら、心の中まで白くなるのか。そんな心配は必要ない。野球のことだけを考えろ」と言って、励ましたことを兵太郎は思い出していた。

 1966年5月19日、兵太郎は78年の生涯の幕を下ろした。彼が残した野球に関する遺品は、嘉義農林で使っていた硬式のボール一個だけであった。そのボールには、「球は霊なり」と書かれていたのである。


 


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