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十河信二

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十河信二 
(そごうしんじ)

岩のごとき信念と情熱 
新幹線の父  七十一歳で国鉄総裁に

 新幹線は、十河信二の信念と情熱がなければ、決してできなかったと言われている。携わる内外の協力者の心を奮い立たせ、一つにさせたからである。完成に至る過程は、決して容易ではなかった。阻止を目論んだ者は、国鉄内ばかりではなく、政治家、官僚にも数多く存在したのである。

十河信二


後藤新平との出会い

 東京オリンピック開催を目前に控えた1964年10月1日、東京と新大阪を結ぶ東海道新幹線が開通した。敗戦の廃墟の中から立ち直り、一流国の仲間入りをしようとする日本国民の夢を乗せて、新幹線は疾走した。文字通り新幹線は戦後復興の牽引車であったのである。この新幹線の父と呼ばれた人物が、十河信二である。
 十河が鉄道に関わるようになったのは、東京帝国大学法科大学(現在の東大法学部)の卒業間近のことである。当初、彼は農商務省に就職が内定していた。しかし、知り合いの紹介で鉄道院(現在の国土交通省、JR)の初代総裁後藤新平と面会して、進路を変えた。後藤に「大衆に奉仕したいから農商務省を選んだ」と告げると、「ならば、鉄道院に来たらどうか。鉄道院の方がもっと国民生活に密着しているではないか」と後藤は言った。この後藤新平との出会いにより、十河は鉄道院に奉職することになる。
 後藤は常々語っていたことがある。「鉄道に従事する者は、まず愛に徹せよ。寝ても覚めても、鉄道を愛するという念を離れてはならない」。この言葉は、国民大衆に奉仕したいという十河の心を奮い立たせ、彼の胸に深く刻み込まれたのである。
 1917年、十河は鉄道業務の視察を目的として1年間、アメリカに留学した。渡米前、彼は「いつか日本はアメリカと戦わなければならない日が来るのではないか」と考えていた。しかし、アメリカを知るにつけ考えを変えた。アメリカと戦争をするというのは、とんでもないことだ。万一、両国間に危機が迫っても、戦争だけは避けなければならないと考えるようになった。さらに、将来の日米戦争を回避するには、日中両国の親善提携が不可欠だと確信し、彼は中国研究にとり組み始めるのである。


満州へ

 十河に転機が訪れた。関東大震災(1923年)の復興のため設立された帝都復興院に出向していたときのこと。十河は、土地買収に関わる贈収賄の嫌疑で逮捕、97日間収監されてしまった。裁判では無罪となったものの、彼は鉄道省を去らざるをえなくなった。浪人の身となった彼を救ったのが、鉄道大臣だった仙石貢であった。仙石が1929年に満鉄の総裁になるやいなや、十河を満鉄の理事に招請した。その仙石のたっての願いを受け、彼は1930年満州に向かったのである。46歳の再出発であった。
 満州の地を「五族協和(日本人、満州人、漢人、蒙古人、韓国人の協調)」「王道楽土(理想郷)」にしたい。多くの日本人はその実現を夢見て渡満した。十河信二もその一人であった。しかし、満州の現実はそんな甘いものではなく、関東軍(満州に駐屯した日本陸軍)は力で他民族を圧迫していた。詐欺まがいのやり方で、中国法人を乗っ取ったり、土地を収奪。義憤にかられた十河は関東軍に乗り込んだ。「中国人を苦しめて、どうして王道楽土が作れるのか」。しかし国賊扱いされるばかりで、とりつく島もなかった。
 その後、国策会社である興中公司ができ、社長に就任。会社の目的は、日中が協力して中国の経済建設を図るというもの。しかし、日中戦争の勃発(1937年)、政府の方針転換などにより、3年後には辞めてしまった。日中親善を通して、日米戦争を回避したいという思いは、見事に打ち砕かれたのである。54歳で再び浪人の身となった。


国鉄総裁に

 戦後、鉄道弘済会の会長などを歴任した後、1955年に71歳の十河に国鉄総裁の話が持ち込まれた。国鉄の歴史において未曾有の危機の時であった。前年、国鉄の青函連絡船「洞爺丸」が台風で転覆。死者は千人を超えた。その翌年、瀬戸内海で国鉄の連絡船「紫雲丸」が同じ国鉄の貨物船と衝突して沈没、168人が死亡した。
 長崎惣之助国鉄総裁は責任を取って辞任。しかし、後任のなり手はなかった。無理もない。改善の見込みのない膨大な赤字体質の責任を追及され、そのうえ相次ぐ事故で世間の非難が集中する総裁の椅子に何の魅力もなかった。そんな国鉄の現状に一番心を痛めていたのが、十河だった。老骨に鞭打ちながら、政治家を回って国鉄改革案などを具申していた。「そんなに言うんだったら、あんたがやったらどうか」。十河に白羽の矢が立った。
 もちろん固辞した。渋る十河に同郷(愛媛県)の国会議員三木武吉は、「君は赤紙(戦争の召集令状)をつきつけられても祖国の難に赴くことを躊躇する不忠者か」と一喝。十河は愛国心の固まりのような男である。「俺は不忠者にはならん」と言って、引き受けてしまった。記者団に「最後のご奉公と思い、線路を枕に討ち死にするつもりだ」とその覚悟を語った。これは決して大袈裟な表現ではなかった。当時、彼は高血圧と神経痛に悩まされ、前年には半年ほど病院に入院をしており、その上71歳という高齢。総裁という激務に当たることは、文字通り命がけであったのだ。


広軌案反対と妻の死

 十河が国鉄再建の柱に考えていたのが、東海道に敷く広軌高速鉄道(新幹線)であった。これは恩師、後藤新平、仙石貢ら国鉄の大先輩たちの夢であり、満鉄を走った「あじあ号」を十河はイメージしていたに違いない。しかし、線路の幅を広くする広軌案は、これまで何度も提唱されてきたが、常に政争の具にされて果たせなかった。その上、東海道重視の案は、票かせぎのためにローカル線を敷こうとする政治家の反発が予想された。しかし、十河という人物は、満州を舞台に暴れ回った百戦錬磨の強者だった。一度決めたら岩のごとき信念を持って取り組み、溢れる情熱を傾けて成し遂げていったのである。
 まずは技師長(技術面の最高責任者)の人事。十河の頭にすぐに浮かんだのが、国鉄OBで技術屋の島秀雄であった。島は政治に翻弄される国鉄に嫌気がさして民間に移った男である。再び国鉄に戻ることには抵抗があった。しかし、十河の情熱が島の心を動かした。十河の情熱と行動力、それに島の叡智と技術力が加わったのである。
 総裁になった翌年、十河は最大の試練に襲われた。妻が心臓性喘息の発作を起こし、倒れてしまったのである。以来、息を引き取るまでの2年間、彼の妻に対する看護は徹底していた。激務であったにもかかわらず、夜の食事は、妻のベッドの傍らでほとんど一緒に取った。夜は、妻が苦しんだらすぐわかるように、妻の手と赤い紐で結び合い、寄り添って寝た。二人の関係は、娘の目から見ても、眩しすぎるほどで、「自分ですら、入るすき間がないほどだった」と長女は語っている。臨終に際し、夫の手を握りしめながら、妻は静かに息を引き取った。十河は亡骸に取りすがり、妻の名を呼びながら号泣した。
 総裁としての十河の出発は試練の船出であった。最愛の妻の看病を続けながら、広軌案に対する内外の批判を受けて立つのである。この困難を十河は岩のごとき信念で乗り越えていった。


世界銀行からの借款

 新幹線開通に際し、問題となるのは予算である。はじき出した予算は、5年間で総額3千億円強。十河は「高すぎる。半分にしてくれ」と言い放った。これでは国会は通らない。批判的な議員から「狭軌でやれ」という話になってしまう。とにかく国会を通しさえすればなんとかなる。遠からず予想される不足分は政治力で押していくと十河は考えていた。
 結局、1959年3月の国会で総工費1972億円で可決、承認された。いわば、国会と国民を欺いた上での見切り発車のようなものだった。この時、島は「政治家というものは、えらいことをするものだ」と言って、十河の度胸に感心したという。
 この年、もう一つの大きな出来事があった。世界銀行に1億ドルの鉄道借款を申し入れたのである。それには佐藤栄作(後の総理大臣)の協力が大きかった。総裁就任後、十河は夜討ち朝駆けで政治家を訪問し、説得工作に当たっていた時期があった。十河の話に積極的な賛意を示したのは、佐藤栄作だった。その彼が大蔵大臣に就任し、十河に世界銀行からの借款を勧めたのである。佐藤が言うには、たとえ内閣が変わり、政策が変わっても、予算が打ち切られないために、外からの制約が必要だ。それには世界銀行からの借款が一番いい。金額そのものよりも、政府に事業継続を義務づけさせることになるからだと言う。
 紆余曲折はあったものの、2年後に総額8千万ドルの借款契約にこぎ着けた。調印式に臨んだ十河は「これで新幹線はできあがったも同然だ」と言って喜んだ。


「夢の超特急」誕生

 1964年10月1日、東海道新幹線の開業の日。午前6時、「ひかり1号」が東京駅を、同時に「ひかり2号」が新大阪駅をスタートした。出発に先立ち、東京と新大阪で盛大な出発式が行われたが、そこには十河信二、島秀雄の姿はなかった。前年、十河は総裁再任を果たせず、退任せざるを得なかった。
 任期満了となっても、せめて新幹線開通まで留任させて、テープカットをさせてあげたいという同情論がなかったわけではない。しかし、十河の再任を望まない勢力が政治家にも、官僚にも数多くいて、彼らが膨大な予算不足を問題にして十河の再任を阻止したのである。技師長の島は慰留されたが、「十河さんがお辞めになるんなら、私も辞めます」と言って、国鉄を去った。この二人は、出発式にも招待されなかったのである。このことは国鉄の汚点として長く後世に語り継がれることになった。
 総裁時代、十河は自分で財布を持ち歩かぬほど「潔癖」で通した。利権がらみの話が一切通じない頑固親父だった。この非利権的体質が、政界、業界、官僚から反感を買い、十河の追い落としが画策されたと言われている。十河の元秘書は開業報告に十河宅を訪ねて、出発式に招待しなかった事務当局の不明を詫びた。十河は静かに「なに、無事走ってくれさえすれば、それでいいんだよ」と語ったという。十河には、金にも名誉にも何の野心もなかった。あったのはただ一つ、新幹線建設の夢だけだった。
 今、東京の新幹線駅の19番ホームの最南端に、十河信二のレリーフがかけられている。国鉄のドル箱となった新幹線の生みの親を顕彰しようと、作られたものだった。その傍らを毎日、新幹線が通過する。まるで十河に見守られているかのように。



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