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山下 太郎 
(やました たろう)

             アラビア太郎と呼ばれた男  
            溢れる開拓者精神と公共心 日本人の手で石油を掘る

 日本人の手でアラビアに石油を掘る。こんな誰も考えもしなかった夢を実現した男がいた。山下太郎である。ホラ吹きと言われ、山師と言われたりもした。しかし、彼の心に溢れていたのは、札幌農学校で養った開拓者精神であり、国家に貢献し、世界の福祉に役立ちたいという公共心であった。

山下太郎


開拓者精神

 山下太郎はアラビアで石油採掘を始めた時、アラビア太郎と呼ばれた。気宇壮大な夢を抱き、未知の世界への憧れを持ち続けた人物であった。彼は、「青年よ、大志を抱け」のクラーク精神で有名な札幌農学校の出身。ここで吹き込まれたのが開拓者精神だった。
 1889年4月9日、秋田県平鹿郡大森町(現在の横手市)に近藤正治・美津の長男として生まれるが、野心家であった父は郷里を捨て、一旗揚げようと横浜に飛び出してしまった。その後、生活に困窮した父は、生まれたばかりの太郎を祖父母の山下太惣吉とひさに預けてしまう。太郎は祖父母の養子となり、彼らの手で育てられた。
 実父母の生活が安定し、太郎を引き取ったのは10歳前後の時である。父は相場師でもあり、大胆な駆け引きで相当の財をなしていた。そんな父譲りの度胸が太郎にはあった。しかし、青年となった彼はこの父とソリが合わなくなる。
「お父さんの仕事には、理想というものがありません」と言って、しばしば父と衝突した。札幌農学校で、クラーク精神、内村鑑三の精神が叩き込まれていたのである。


満州太郎

 山下太郎が満州と関わりを持つことになったのは、札幌農学校を卒業して10年後。山下商会を立ち上げて、数年が経っていた。国内では米価が暴騰、米騒動が全国各地で発生する中、山下は外米の調達を考え、中国の江蘇米に目をつけた。5万石(1石=成人1人の1年間の消費量)を中国から購入し、それを満鉄(南満州鉄道、日本の国策会社)に売り込むことに成功した。まずは6千石の江蘇米が満鉄に納入された。ところが、1920年3月15日、大暴落が起き、満鉄はこの契約を一方的に破棄してしまった。
 満鉄の松本烝治理事に呼ばれ、「損害賠償を請求してもいいんだよ」と言われた山下は、きっぱりと「その必要はありません」と言い切った。山下の返答は松本理事を驚かせ、「そのうち、何かいいことがあるかもしれんよ」と山下にささやいた。とは言うものの、山下商会は存亡の危機に立たされた。硫安、鉄、雑穀などを扱っていたが、どれも大打撃を被っていたのである。30人いた社員を5人に減らし、急場を凌いだ。
 それから1年以上が経った頃、満鉄の松本理事から呼ばれ、訪ねてみると、松本は次のように語った。「君に損をさせたことは事実だから、何かの形で償いをしたい」。満鉄の社員用の簡易住宅を建てる計画があり、それを山下商会に請け負ってもらいたいのだという。そして、それは満鉄役員みんなの希望だとも言った。賠償請求しなかった山下に役員全員が感動していたのである。
 海外に雄飛して未開の原野を切り開きたい。開拓者精神に火が付いた。住宅建設はずぶの素人だが、夢は膨らんだ。この住宅建設で山下太郎は息を吹き返した。満州帝国の建設や日中戦争を契機に住宅需要は増える一方。最終的には5万戸に膨らみ、その家賃収入までもが、山下の会社(南満州興業)に入ってきた。その頃になると三井、三菱を凌ぐ資産家と言われ、満州太郎と言われ始めたのである。しかし敗戦と共に彼の財産も、夢も、煙のように消えてしまった。この時、山下太郎はすでに57歳。無一文状態となった。


石油に関心

 戦争で日本の都市部は焦土と化していた。住宅建設は早急の課題であった。山下は満州の経験を生かして、「復興建設」「公共建物」という会社を立ち上げ、会社の社宅などの建設に乗り出していく。しかし、この事業に手を広げながらも、なぜか意欲が湧いてこない。国家に貢献し、人類の福祉に役立つ事業が他にあるはずだ。そんな気持ちが彼の脳裏を離れなかった。札幌農学校で吹き込まれた開拓精神が燃え続けていたのである。
 山下が目をつけたのが石油。日本が戦争に負けたのは、ろくに石油を持たずに戦争を始めたからだと彼は考えていたのである。「自分で石油を掘らなければダメだ。人のものを買っているだけでは、しょうがない」。これが彼の持論であった。
 山下が調査を開始した頃、貴重な情報が飛び込んできた。スエズ戦争の勃発で、サウジアラビアは日本との石油利権交渉に期待しているという。日本はスエズの問題では中立であったし、これまでアラブといざこざを起こしたことがないからである。
 1957年2月11日、山下太郎は首相石橋湛山、外相岸信介の紹介状を携えて羽田空港を飛び立った。奇しくもその日は日本の建国を記念する紀元節。日本国民全ての期待がかけられている。そんな英雄的使命感に溢れ、山下はタラップを登った。
 サウジに来てみてわかったことは、石油が出そうなところは海底だけ。それもサウジとクウェートの中立地帯で、利権も両国の共有。開発費用は1億ドルは下らないという。1億ドルと聞いてさすがの山下も黙りこくってしまった。失敗したらどうするか。首をくくるしかない。この時彼はすでに69歳。おそらく人生最後の仕事になるだろう。彼は自分自身に奮い立たせるように言った。「山下太郎!俺は自分が臆病者であることを、俺自身に許すことができない。札幌農学校で養った開拓者精神は、まだ枯れきっていないはずだ」。サウジ側から示された猶予期間は6ヶ月。重い課題を背負って、彼は帰国した。
 反響は大きかった。敗戦で萎縮していた日本人が、中東で石油を掘るなど、誰も夢にも思っていなかったことだった。それを実現しようとする男がいる。一大傑物と言う者もいたが、山師と呼ぶ者も多かった。反対の急先鋒が東大経済学部長脇村義太郎教授であった。日本には海底油田の経験も技術もないではないか、もっと慎重であるべきだという。
 しかし、経団連会長石坂泰三は山下を全面的に応援した。「あんな山師のような男になぜ肩入れするのか」という批判に対し、石坂は「彼とは40年来の友人だが、彼は一度も私を裏切ることはなかった」と言って反論した。この事業は日本の国家のために必要なことだという信念を石坂は山下と共有していたのである。
 通産省(現在の経済産業省)の中にも、消極派は決して少なくなかった。しかし熱心な山下支持派の一人は、こう言った。「今度、山下が石油を掘ると聞いて、ようやく情熱を注ぐ対象が見つかったよ。俺は戦争で死んだ仲間がかわいそうでたまらん。あいつらはみな石油がなくて死んだんだ。今度のことがうまくいけば、死んだ彼らに生き恥をさらしていることの言い訳ができるというものだ」。戦死者の弔いになると考えたのである。山下も同じ気持ちであった。


石油噴出

 電力会社、鉄鋼会社等の新会社(アラビア石油)への大口出資が決まり、山下は再度サウジに向かった。しかし交渉はなかなか進まない。と言うより、始まらないのだ。太陽の出ている間は人間の活動は停止する国柄である。その上、正月休み(イスラム暦)と夏休みが重なる時期でもあった。何事にも性急な山下にとって、耐え難い日々が続いた。
 交渉が開始しても、利益配分の問題などで交渉は難航した。ようやく調印にこぎ着けたのは、山下一行がサウジに着いて5ヶ月近くが経っていた。しかし、まだクウェートとの交渉が残っている。この頃になると、英米10社が競争に乗り出してきた。日本側が提示する条件が劣悪ならば、英米にかすめ取られる危険性があった。眠れぬ日々が続いた。宿舎の前の海岸を夜遅くまで、物思いに耽って行ったり来たりしている山下の姿を多くの人が見ている。自信を失って、意気消沈したり、焦燥感から不機嫌になり、部下のちょっとした手落ちに怒鳴り散らすことも多くなっていた。
 王族会議の日、山下はその結果を部屋で待ち続けていた。王室秘書長が山下がいる宿舎に駆けつけ、その決定を伝えた。「王族会議は利権をあなたに供与することを決定しました」。その途端、山下は秘書長に抱きつき、涙をポロポロ流した。周りの日本人もみな泣いた。東京を発って、すでに10ヶ月ほどが経っていたのである。
 ようやく利権を手に入れたが、これで終わったわけではない。果たして石油が出るのか、誰もわからない。博打のようなものだった。資本金はとっくに使い果たしていた。金はいくらあっても足りない。金の卵を産む鶏を手に入れたが、果たして金の卵を産んでくれるのか。もし生まなかったら?こう思うと山下は気が狂いそうになった。
 利権を獲得して1年半後の1960年1月、ついに油層に届いた。日本の自宅で待機していた山下に届いた電文には、日産5千4百バレルの噴出を告げられていた。期待していた量である。彼は妻に一言、「よかった」とつぶやいた。山下のように、最初の1号井戸から石油が出るのは、きわめて珍しいことだった。その後、掘る井戸ごとに石油が出、ホラ吹き太郎と揶揄された山下は、一躍国民的英雄になった。
 アラビア石油に入社を希望する一人の青年が現れた。山下の事業に最も強く反対した急先鋒、脇村教授の紹介状を携えていた。教授は教え子に「山下さんは頼もしい人物だから、その下で働く甲斐があるだろう」と語ったという。最も手強かった相手が、自分の支持者になってくれたのである。山下は胸が熱くなり、目に涙がにじむのを覚えた。
 山下は、札幌農学校をビリで卒業したと噂されていた。その真偽のほどは定かではないが、優等生でなかったことは確かである。しかし、そこで培ったクラークの開拓者精神「青年よ、大志を抱け」は、彼の生涯を貫く信念となった。1967年6月9日、世紀の一大傑物アラビア太郎は息を引き取った。享年78歳。  


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