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樋口季一郎 
(ひぐちきいちろう) 

2万人のユダヤ難民を救済 
ユダヤ協会の樋口救出運動  「偉大なる人道主義者」  

樋口季一郎は、人を力で威圧しようとする権威主義的体質を全く感じさせない希有な軍人だった。これは、ワルシャワでの駐在武官時代に開花した性格と言われている。各国の要人との幅広い交際が、弾力性のある国際感覚に磨きをかけ、ユダヤ人に対する深い同情を持つに至ったのである。

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樋口季一郎

陸軍きってのロシア通

  ヒトラーのユダヤ人弾圧が猛威をふるっていた頃、約2万人のユダヤ難民を救済した日本人がいた。特務機関長としてハルピンに勤務していた陸軍少将樋口季一郎である。樋口の名は、外交官としてユダヤ難民を救済した杉原千畝ほどには、一般的に知られているわけではない。しかし、イスラエルの「黄金の碑」に「偉大なる人道主義者 ゼネラル・ヒグチ」と刻印され、その名はイスラエル建国の功労者として永遠に顕彰されている。
  樋口季一郎が生まれたのは、1888年8月20日、奥浜久八とまつの間の長男として、兵庫県淡路島に生まれた。11歳の時に両親が離婚、季一郎は母まつに引き取られた。大阪幼年学校を出て、陸軍士官学校へと進み、歩兵第一連隊勤務となり、軍人としての道を歩み始めた。樋口姓を名乗ったのは、18歳の時に、岐阜県大垣市の樋口家に養子になったからである。
  その後、陸軍大学に進んだ樋口は、ドイツ語を学んだが、第二外国語にロシア語を選んだ。陸軍の仮想敵はロシアであり、ロシアに対する研究が重要と判断したからである。陸大卒業後、参謀本部勤務となり、対ロシア関係の仕事に従事。後年、陸軍きってのロシア通となった素地はこうしてできあがった。
  ポーランドの駐在武官として、ワルシャワ行きを命じられたのは、30歳頃のことである。このポストは、対ロシア研究の最重要ポストとされていた。ポーランドはロシアの隣国であり、ロシア情報の収集に最も適していたからである。当時、ポーランドの諜報戦略は、世界のトップレベルにあると言われていた。陸軍上層部が、樋口をこのポストに選んだのは、彼が優秀であったことはもちろん、彼が暗号解読技術をポーランドに学ぶべきだと具申していたからでもあった。

ユダヤ老人との出会い

  駐在武官として、各国の外交官、武官などとの交際が実を結び、樋口はソ連領内のコーカサス地方にはじめて入ることに成功した外国人となった。貴重なソ連情報を収集できたことは言うまでもない。当時、ソ連は革命政権誕生間もない頃で、外国人の入国を一切許可していなかった。厳重な鉄のカーテンで閉ざされていたのである。
  後にユダヤ人から恩人と称賛された樋口は、この時の旅で一人の不思議なユダヤ人の老人と出会っている。グルジアの首都チフリス(現在のトビリシ)郊外にある貧しい集落を歩いていたときのことである。髭を生やした一人の痩せた老人が、樋口ら一行に近づいてきた。老人は、彼らが日本人だと聞くと顔色を変え、家の中に招き入れ、話し始めた。「私はユダヤ人である。世界中で一番不幸な民族であり、どこに行ってもいじめられてきた」。
  こう言った後、「日本は東方の国で、太陽が昇る国。あなた達日本人は、ユダヤ人が悲しい目にあったとき、きっと助けてくれるに違いない。あなた達がメシア(救世主)なのだ。きっとそうに違いない」と続けた。老人は、こぼれ落ちる涙をぬぐおうともせず、困惑する彼らの前で祈りを捧げ始めた。樋口は、老人の言葉を単にたわいもない妄想と片付けることができなかった。老人の顔に刻まれた皺とその涙に、流浪の民の悲哀、そして救いを希求してやまない民族の悲劇を垣間見た思いがしたのである。

カウフマン博士の訪問

  樋口が、ハルピンの特務機関長という重要なポストを与えられたのは、日中戦争が勃発した直後の1937年夏、49歳の時である。陸軍きってのロシア通であり、諜報戦略の権威と認められての抜擢であった。満州国に来てみて、樋口が驚いたのは、独立国というのは表向きのことで、その実態は日本の植民地にすぎないという事実であった。どこに行っても日系官吏が幅をきかせている。そればかりではない。あらゆる階層の日本人が、利権あさりに汲々としていた。
  こんなことでは、満州国は民衆にそっぽをむかれ、早晩内部崩壊してしまう。樋口は若手将校を集めて、「満人の不満をよく聞いてやるようにつとめよ。また悪徳な日本人は、びしびし摘発しろ」と命じた。樋口の元にユダヤ人医師カウフマン博士が訪ねてきたのは、樋口の不良日本人退治が、大いに実績を上げ始めた頃のことである。
  カウフマン博士は、ハルピンユダヤ人協会の会長で、総合病院を経営する内科医、アジア地域におけるユダヤ解放運動のリーダーとして知られていた。博士の話はこうだ。ナチ・ドイツのユダヤ人迫害は激化する一方。こうした非道を全世界に訴えるため、ここハルピンで極東ユダヤ人大会を開催したい。その許可をいただけないかと言うことであった。樋口は快諾した。「博士、おやりなさい。あなたがたの血の叫びを、全世界の人々に聞いてもらいなさい。私もおよばずながらお力になりましょう」。
  第一回極東ユダヤ人大会が、ハルピン商工倶楽部で開催されたのは、翌年(1938年)1月15日。東京、上海、香港などから、ユダヤ人の代表およそ2千名が集まり、広いホールがユダヤ人で埋め尽くされた。各地域の代表が次々に登場した後、最後に来賓として招待されていた樋口が演壇に立った。会場が一瞬シーンと静まりかえったという。「20世紀の今日、ユダヤに対する追放を見ることは、人道主義の名において、また人類の一人として、私は心から悲しまずにはおられないのである」。
  樋口は続けた。「ユダヤ人を追放する前に、彼らに土地を与えよ!安住の地を与えよ!そしてまた祖国を与えなければならないのだ」。演説が終わった。すさまじい歓声が鳴り響き、熱狂した青年が壇上にかけ上がり、樋口の前に跪いて号泣しはじめた。協会の幹部たちも、感動で顔を紅潮させ、樋口に次々に握手を求めてきた。

オトポール事件

  樋口の演説は、内外に大きな波紋を引き起こした。特に関東軍司令部から批判が起こった。「日独関係を悪化させるような論調は許されない」。「即刻彼を罷免すべきだ」などである。しかし、彼の懲罰問題がまだ決着を見ていない3月8日、重大事件が勃発した。
  満州里と国境を接する、ソ連領オトポールにユダヤ難民が吹雪の中で立ち往生しているという。ナチスのユダヤ人狩りを逃れてきたユダヤ人であった。その数は約2万人、満州国に助けを求めたが、満州国は彼らの入国を拒否していた。難民の食糧はすでに尽き、飢餓と寒気で死者が続出しているという。
  カウフマン博士が樋口の部屋に飛び込んできた。難民の窮状を訴え、樋口の助けを求めたのである。樋口は苦悶した。陸軍の現状は、すっかりヒトラーに幻惑され、ドイツ一辺倒に傾きつつあった。その陸軍と関東軍を相手に、首を覚悟して戦わなければならないことになるかもしれない。
  樋口の脳裏にグルジアで会ったユダヤ老人の言葉がよぎった。「あなた達日本人が、きっと助けてくれる。あなた達がきっとメシアなのだ」。樋口の心は固まった。「よし、俺がやろう。軍を追放されてもいい。正しいことをするのだ。恐れることはない」。迷いが消え、決然としてカウフマン博士に言った。「博士、難民の件は承知した。博士は難民の受け入れの準備にかかって欲しい」。博士は樋口の前で声を上げて泣いた。樋口の行動は早かった。大連の満鉄本社の松岡総裁に連絡をつけ、交渉に入った。一刻の猶予もない。
  その2日後の3月12日、ハルピン駅にユダヤ協会の幹部たちが、救護班を伴い列車の到着を今か今かと待っていた。列車が轟音と共に滑り込む。どよめきの声がホームに広がり、担架を持った救護班が真っ先に車内に飛び込んだ。病人が次々に担架で運び出され、ホームは、痩せこけ目がくぼんだ難民たちでいっぱいになった。だれかれとなく抱擁し、泣き崩れる難民たち。カウフマン博士は、涙で濡れた顔をぬぐおうともせず、難民たちに労りの声をかけていた。凍死者十数名、病人二十数名ですんだのは不幸中の幸いだった。樋口の判断がもう一日遅れれば、もっと悲惨な結果を迎えていたと言われている。

ユダヤ人の恩返し

  このオトポール事件は、戦後の樋口の人生を大きく変えることになる。戦後、ソ連は樋口を戦犯容疑者として、連合軍に樋口の引き渡しを要求してきた。ソ連から見れば、樋口はハルピンの特務機関長、つまり対ソ情報活動の総元締めであった。そればかりでなく、北方軍司令官として樋口は、日ソ中立条約を一方的に破棄して日本に宣戦布告したソ連と樺太、占守島で勇敢に戦い、ソ連軍に多大な被害を与えた。ソ連から見れば、樋口は憎むべき司令官であった。
  しかし、マッカーサー将軍は、樋口引き渡しの要求を断固拒絶した。マッカーサーの背後には米国国防総省があり、それを動かしたのは、ニューヨークに総本部を置く世界ユダヤ協会であった。ユダヤ協会の幹部には、オトポールで樋口に助けられた難民が幾人かいた。彼らは、「オトポールの恩を返すのは今しかない」と言って、樋口救出運動を展開したのである。こうして樋口はシベリア送りを免れた。
  樋口自身、この救出運動を知ったのは、実は戦後5年を経てからであった。1950年、アインシュタイン来日の折り、東京渋谷のユダヤ教会でユダヤ祭が開催されることになった。ここに樋口夫妻が招待され、幹事役のミハイル・コーガンが演壇でスピーチを始めた。実は、このコーガンは、ハルピンで開催された極東ユダヤ人大会で、樋口の護衛を務めたユダヤ青年であった。彼から、驚くべきことが伝えられた。
  世界ユダヤ協会が樋口救出運動に乗り出していたという。また、イスラエル建国(1948年)に当たり、国家建設と民族の幸福に力を貸してくれた人々を功労者として永遠に讃えるため、「黄金の碑」を建立することになった。その碑に樋口の名と「偉大なる人道主義者、ゼネラル樋口」の一文が、上から4番目に刻まれているという。
  コーガンの話が終わると、講堂を埋め尽くしたユダヤ人たちは、「ヒグチ」「ヒグチ」と連呼し、拍手と歓声は鳴りやまなかった。樋口はこのどよめきの中で、「私は人間として当然やらなければならないことをやっただけである」と呟いたという。1970年10月11日、偉大な人道主義者樋口季一郎の生涯が終わった。



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