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今西錦司 
(いまにしきんじ) 

自然を東洋的全体論で見る 
パイオニア精神の持ち主   生物学者になった登山家 

  今西錦司は、常に未知の世界へ足を踏み入れようとした。そのパイオニア精神と旺盛な好奇心により、彼は登山や探検の分野だけでなく、学問の分野でも常に道なきところに道を造る先駆者であった。自然を一つの全体と見る彼の東洋的世界観は、自然との直接的触れ合いの中から生まれたものである。

生涯一登山家

  今西錦司とはユニークな人物である。サル学と言われた霊長類研究に先鞭をつけた生物学者であり、ダーウィン進化論に異議申し立てをした今西進化論はあまりにも有名である。梅棹忠夫、川喜田二郎をはじめとする著名な学者を育て世に送り出した。生物学者であることは間違いないのだが、どうもその枠におさまらない。
  今西を知る手がかりは、おそらく山にある。「彼は生涯一登山家であった」と今西を知るほとんどの者は言う。13歳のときに登った京都の愛宕山を皮切りに、登頂した山は生涯1552に達した。驚くことに、最後の登山は死の4年半前、85歳の時である。学者である前に、彼は登山家であったのだ。そこに今西錦司の原点がある。
  若い頃、今西は前人未踏の山にこだわった。他人に踏みならされた山には魅力を感じなかった。パイオニア精神と未知への好奇心。これらは今西錦司の生涯において貫かれている。登山だけではない。探検においても、学問においても、常にパイオニアであり続けようとしたのである。冬のモンゴル調査、あるいはヒマラヤ登頂への挑戦。学問領域では、霊長類研究、類人猿研究など。全て未知への挑戦であった。
  晩年、彼は自然科学者を廃業すると言って、まわりを驚かせた。彼が提唱する「自然学」なるものは、自然科学の領域をはみ出し、哲学的、宗教的ですらあった。科学者でありながら、科学を越えた先にあるものへ彼の関心が注がれていたのである。

母の死と祖父の死

  1902(明治35)年1月6日、今西錦司は京都に生まれた。家は祖父の代から、「錦屋」という織物業を営み、京都西陣でも有数の織元であった。何不自由なく少年時代を過ごしたが、どちらかというと虚弱なほうで運動にはほとんど関心を示さず、もっぱら昆虫採集に熱中する少年であったという。
  そんな彼が登山に関心を持つきっかけは、13歳の時に遠足で登った愛宕山である。運動を苦手とする彼が、どういうわけか一着で山頂に到着した。この体験が契機となり、体力に自信がつき、山に愛着を持ち始めたのである。
  15歳の時、転機が訪れた。母の死である。家族、使用人含めて30人ほどの大世帯を切り盛りする生活に、お嬢さん育ちだった母は心身共に消耗したのであろう。不幸はこれで終わらなかった。続いて、創業者である祖父が死亡した。錦司の父平三郎はすっかり気落ちしてしまう。妻を亡くし、同時に錦屋の後ろ盾でもあった父を失ってしまったのである。平三郎の事業意欲は、すっかりしぼんでしまった。
  二人の死が錦司に与えた精神的打撃は、計り知れないものがあった。母、祖父を失った寂しさをどうすることもできない。傷心を癒そうとするかのように、少年は山登りにのめり込んでいく。そのときのことを次のように語っている。「その衝撃を乗り越えてゆくために、私の場合は猛烈に山登りを始め、それにエネルギーを集中するようになったのかもしれない」。
  山と自然に魅せられた彼の人生は、ここから始まった。登山家・探検家であり、かつ生物学者今西錦司は、この時の体験なくして存在しなかったであろう。

ヒマラヤ遠征

  1921年、今西錦司は三高(現在の京大教養部)に入学する。西堀栄三郎、桑原武夫、四手井綱彦ら錚々たるメンバーが同級生となり、彼らと三高山岳部を発足させた。当初、今西は京都大学の理学部動物学科に進学を希望していた。しかし、結局は農学部農林生物学科に入学した。その理由が、いかにも今西らしい。
  理学部の場合、1年生の夏休みに和歌山県白浜で3週間ほどの実習が義務づけられていた。しかし、その夏、彼には大切な計画があった。まだ誰も登っていない剣岳の源治郎尾根への初登頂を狙っていたのである。理学部の実習の間に誰かに先を越されてはたまらない。彼は理学部を諦め、実習のない農学部への入学を決めた。
  晩年、岐阜大学の学長を周囲の反対の声を押し切って引き受けたのも、理由は山にあった。岐阜大学に魅力を感じていたわけではないのだ。「岐阜・大垣の背後にそびえる美濃の山々が魅力だった。そこに山があるから私は岐阜大学に行くのである」と語っている。
  日本国内の山々が登山家たちにより、ほとんど登り尽くされ、今西の関心も世界に向けられるようになっていた。ちょうどその頃、一冊の本が出版された。パウル・バウアー著の『ヒマラヤに挑戦して』である。この本に大いに刺激されて、今西と仲間たちはヒマラヤ遠征を決心する。
  ヒマラヤのどこを登るか。検討に検討を重ねた結果、一つだけ対象外に置いた山があった。マナスルである。8千メートルを越える山で、この山の情報は何もなかったからである。今西は検討結果を聞いて、「目標はマナスルだ」と裁定した。当然、「この山は何もわからないから、ダメです」と反対意見が起こる。言下に今西は、「何もわからないからこれをやるのだ」と言った。そこにいた誰もが今西の強烈なパイオニア精神に圧倒されたという。このころ今西は29歳、京大卒業後、無給講師として大学に残っていた時代である。
  実際に今西がヒマラヤ登頂を果たしたのは、それから20年以上の歳月を経た1952年10月のことである。戦争が勃発し登山どころではなくなったからだ。それも登ったのは、マナスルではなく、チュルーという6千メートル級の山。50歳の今西にとって、マナスルは体力的に限界だったし、関心も登頂そのものから学術調査に移っていたのである。

ニホンザルの大群

  今西が霊長類研究を始めたのは、ちょっとしたきっかけからである。戦後まもなくの頃、彼は当時京大の学生だった伊谷純一郎(現在京大名誉教授)らと共に宮崎県で半野生馬の調査を行っていた。その彼らの前に約百頭のニホンザルの大群が現れた。それを見た伊谷は体に衝撃が走った。
  馬は歩いているか、眠っているか、食っているかのどちらかである。それに比べサルの生活は実に多様である。音声も相互のコミュニケーションも多岐にわたる。その上チームワークも整然としている。伊谷は「これをやろう」という決心をしたという。今西も気持ちは同じであった。早くからサルに関心を持ち、いずれ人類学をやろうと思っていたので、サルの群れの研究を端緒にして、人類学に入っていこうと決めるのである。
  この研究で今西の動物社会学は画期的な成果を上げる。西洋では社会とか文化というものは、人間特有のものであると信じられてきた。それに対して、今西は群れを作る動物には生まれながらにして持つ本能的行動だけではなく、群れの仲間から習って、後天的にできるようになる文化的行動があると主張した。今ではこれを疑う者がいないが、当時にあっては画期的な主張であった。
  世界に一歩先行することになる日本の霊長類研究は、こうして始まり、愛知県犬山にある日本モンキーセンターとして結実している。

今西のリーダーシップ

  今西のまわりには常に優秀な人材が集まった。学者として有名になってからではない。京大の無給講師に甘んじていた頃から、不思議と人が集まった。教授でもないし、講座を持っているわけでもない。そもそも教授になったのが、58歳という人生の晩年であった。今西に従うことは学生にとって何の得もないのに、学生は「今西塾」の門を叩いた。それも学科、学部、大学を越えて集まったのである。そこから巣立ちした学者、研究者は数え切れない。その秘密はおそらく彼のリーダーシップの中にある。
  今西には、動物的勘ともいうべき不思議な洞察力があったと誰もが言う。何かで迷っているとき、今西に判断を仰げばほとんど間違いがなかった。実に正確で、本人もその判断にゆるぎない自信を持っていたという。特に危険な山では、ルートの選定、行動の決定など一瞬の判断が生死を決める。
  大興安嶺(内蒙古自治区内)の探検で、いよいよ頂上に達しようとするときのこと。隊長である今西と若い隊員との間で、コース選定で意見が割れたことがあった。今西は不機嫌になり、「お前らは好きなように行け」と言って、彼は一人別コースを取ったという。隊員たちが隊長の身を心配しながら、頂上にたどり着いてみると、なんとそこに今西が憮然たる顔つきで立っているではないか。今西の勘が正しかったのだ。こういうことはよくあったと弟子の梅棹はいう。
  また今西は権威主義や権力欲とはまるで無縁の人間だった。力で従わせるということは全くない。議論の場でも、今西と青年たちとは常に対等だった。たとえば、自分の目で直接観察した事実をどう解釈するかで、猛烈な議論となる。青年たちは論理を振りかざして今西に挑みかかる。今西も負けてはいない。彼らに情け容赦なく切り返す。その場はさながら「知的格闘術の道場」であった。ここでは常に自分の目で確かめた事実と独創的な見解が尊重され、他人からの借りものの見解は軽蔑されたのである。
  もう一つ指摘すべきは、彼の私心のなさである。梅棹は今西の思い出を次のように語る。「何を言われても、何についても、今西には利己的なところがなく、私心がなかった。それがわかっているから、安心して従うことができた」と。
  今西は、専門を細分化する西洋型分析主義には終生肌が合わなかった。分析主義では自然が見えないと考えていたのである。むしろ自然をトータルなものとみる東洋的全体論を自分の考えの基礎にしていた。無給講師の頃、京都の自然の中でカゲロウを観察し、種と種はそれぞれ棲み分けを通して共存しているという「棲み分け」理論を打ち出した。これも東洋的全体論が今西の思想の底流にあったからこそ発見されたものである。
  弟子たちに「自然を直接自分の目で見よ」と言って、生涯フィールドワークにこだわったのも、五感の全てを駆使して自然の全体像を探求するためだった。自らを自然の一部と見なし、自然との共存を目指したその生涯は特筆されるべきだろう。
  1992年6月15日、今西錦司は90年の生涯を終え、大自然の生命の中に溶け込んだ。死因は老衰だったという。



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