河井道 
(かわいみち) 

女学校設立の夢と情熱___天皇を戦犯から救いたい一念 
キリスト教徒となった神官の娘 

  女子教育に情熱を燃やし、ついに恵泉女学園を設立した河井道。その情熱の源泉は、若い頃のアメリカ体験にあった。キリスト教徒でありながら、天皇に対して敬慕の念を抱き続けた彼女は、戦後天皇を戦犯から救うことに成功した。アメリカ軍人との友情がそれを可能としたのである。

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河井道

天皇を救った女性

  河井道は恵泉女学園の創設者として、日本の女子教育に多大な功績を残した教育者である。しかし彼女には、天皇を救ったというもう一つの功績があった。彼女の尽力がなければ、昭和天皇は戦争責任者として処断される可能性があったのである。
  戦後、天皇の戦争責任が論じられた時期、「天皇には戦争責任はない」とするマッカーサー(占領軍の最高司令官)の進言がアメリカをはじめ、連合国の流れを変えた。彼の決断に決定的な影響を与えたのが、副官ボナ・フェラーズの覚書であった。この覚書の作成に手を貸したのが、河井道であった。天皇を救いたいという彼女の一念が、この文章に込められており、マッカーサーを動かすことに成功したのである。

キリスト教と新渡戸稲造

  河井道が誕生したのは、1877年7月、三重県の宇治山田市(現在の伊勢市)。父の範康、母の菊枝の長女で、河井家は代々伊勢神宮の神官を務める格式の高い家柄だった。道が、生涯天皇を敬慕したのは、こうした家庭環境によることは間違いない。
  しかし、明治新政府は財政難から世襲の官職の多くを廃止したため、道の父範康も神官の職を失うことになる。窮地に陥った河井家が選び取った道は、北海道の開拓。慣れ親しんだ町を離れ、北海道函館に渡った。1885年のことで、道は8歳であった。
  失意の父に希望を与えたのは、キリスト教であった。宣教師として函館に渡っていた従兄弟と偶然にも再会したことがきっかけである。父は従兄弟が持ってきた分厚い聖書を熱心に読むことで、心の飢えを満たそうとしたのであろう。父は毎日、伊勢神宮のある南を向いて神道の祈りを捧げることを日課としていたが、キリスト教に出会って以来、南への祈りの後、くるりと北に向きを変えて、新しい神様に祈りを捧げるようになった。父と共に祈りを捧げていた道にとって、神道とキリスト教は心の深いところで不可分のものとして結びつくようになっていた。
  河井道の生涯において最も強い影響を与えた人物が、新渡戸稲造であった。彼と出会ったのは、道が札幌にあるスミス女学校で学んでいた時のこと。新渡戸は母校の札幌農学校(現在の北海道大学)の教授を務めるかたわら、隣接するスミス女学校に出張講義に出向いていたのであった。新渡戸29歳、道は14歳で、二人の交流は終生続いた。

アメリカ留学

  1898年、河井道はアメリカ留学のため太平洋を渡り、最初の寄港地カナダのバンクーバーに到着した。新渡戸の強い推薦で実現したものである。バンクーバーまで同行した新渡戸は道に留学目的を語り始めた。「君をアメリカまで連れてきたのは、単に知識を高めるためではない。アメリカで本や学校の外にあるたくさんの素晴らしいもの、そこから多くを吸収してもらいたい。そして、ごくありふれた場所に立派な人格が溢れている。そういう人たちと一人でも多く接触してもらいたいのだ」。真の教育は、本や学校の外にあるという新渡戸の教えは、その後の道の人生訓となるのである。
  2年間の予備校生活の後、河井道はフィラデルフィア郊外にあるプリンマー女子大学に合格した。授業に出てみて、最初に道を驚かせたのは、学生たちの態度である。先生の話を遮って議論をしたり、先生の意見に反論する者までいるではないか。先生には最大限の敬意を払うよう教えられている日本では、およそ考えられない光景だった。
  プリンマーでの4年間、道は大学で学んだ学問以上のことを学んだ。アメリカ人の心の広さ、生活に根ざした信仰、協力の精神、他者へのいたわりなど。卒業の前年、マーフィ夫妻の好意で、夏休みに2ヶ月間ヨーロッパ旅行の機会まで与えられた。夫妻は、決して豊かとは言えない中産階級。節約して貯めたお金で奉仕活動を積極的に展開する心優しいクリスチャンだった。「日本のように古い伝統を持ったヨーロッパを知る必要がある」と言って、資金を募ってくれたのだ。新渡戸が言った「立派な人格」に触れた思いであった。

恵泉女学園の開校

  プリンマー女子大学を卒業した河井道は、1904年帰国の途についた。27歳の道は、帰国後、津田梅子が開いた津田英学塾に呼ばれ、英語、歴史などを講義した。力強く、情熱に溢れ、気品ある彼女の講義は、女子学生の間で大変評判になり、「河井先生のためならば死んでもいい」と思うほどの熱狂的な女学生がたくさん現れた。生涯、河井道に寄り添いながら生きた一色ゆり(旧姓渡辺)も、その一人であった。一色氏と結婚するときも、「河井先生の仕事を助ける」ということを条件に結婚を承諾したほどである。
  帰国してから約20年間、道はYWCA(キリスト教女子青年会)の総幹事として、その組織化と発展に尽力した。総幹事を辞任して、道は長い間心に温めてきた夢の実現に向かう決断をする。それは、キリスト教主義の女学校を作る夢だった。
  この計画を新渡戸に相談したところ、新渡戸は真っ向から反対した。それもそのはず、資金、土地、建物、教師など裏付けとなるものは何もない。ただ学校設立の思いだけが先行していたのだ。「今の状態で女学校を始めたら、経営に苦しんで終わるだけだ。悪いことは言わない、思いとどまりなさい」と新渡戸は諭した。しかし、道の教育事業への情熱は、敬愛する新渡戸の助言をしても止めることができないほど、大きなものだった。道が新渡戸の意見に背いたのが、後にも先にもこの時だけである。
  1929年4月、ついに恵泉女学園が開校。51歳で夢が一つ実現した。生徒9人、先生12人での出発ではあったが、道は12人の献身的な教師と共に、慈母のごとく生徒に接し、全身全霊を打ち込んだ。2年目からは評判を聞きつけ、入学希望者が激増。10年目には400人を越す女学校に発展した。道の情熱が現実の困難に打ち克ったのだ。

ボナ・フェラーズとの再会

  戦争が終わって2週間目の1945年8月30日、マッカーサー元帥と共に厚木基地に降り立った一人の軍人がいた。マッカーサーの副官ボナ・フェラーズである。彼はマッカーサーが最も信頼するスタッフの一人で、日本通で知られていた。彼の最大任務は、天皇の戦争責任を判断し、その処遇に関してマッカーサーに意見書(覚書)を提出することであった。
  フェラーズは投宿したホテル側に、真っ先に「東京に住む河井道という女性を捜してほしい」と要請した。自分の任務を達成するために河井道の協力が不可欠と考え、彼女を占領軍の相談役にしようと考えていたのである。欧米を理解し、日本人の感情も理性も語れ、そして国民意思を代弁できる人でなければならない。河井道が最適であった。
  道とフェラーズの縁は、道の教え子一色ゆり(旧姓渡辺)がアメリカに留学し、そこでゆりがフェラーズと友人になったことから始まった。ゆりはフェラーズが出会った最初の日本人で、以来日本への興味を深め、日本研究を深めていった。戦前、フェラーズは5度来日しており、一色家や河井道との親交を深めていた。彼は、自分の任務遂行のため、まず河井道に会わなければならないと考えていたのである。

天皇を救った覚書

  フェラーズは道に質問した。「仮に天皇を処刑するということになったら、あなたはどう思いますか。そして日本国民はどんな反応を示すと思いますか」。道は即座に答えた。「もし陛下の身にそういうことが起これば、私がいの一番に死にます。日本人はそのような事態を決して受け入れません。そして血なまぐさい反乱が起きるでしょう」。
  フェラーズは、道の返答に驚きを隠せなかった。道はクリスチャンである。それに戦時中、戦意高揚の品の学校設置を断固拒否し続けていた。それ故拘束されたこともある。その彼女が、なぜこれほどまでに天皇を擁護するのか。フェラーズは、欧米人には理解できない日本人の心理の一端に触れた思いだった。
  フェラーズは道との話し合いを通して、「天皇を裁いてはならない」という信念を固めていく。時は急がれていた。アメリカの世論の70%が天皇の処分(内死刑要求が33%)を要求し、上院では、天皇を裁判にかけることを満場一致で決定していた。さらにマッカーサーのスタッフの大半は天皇訴追に賛成だったのである。
  彼は道の協力のもと、約10日間で意見書を書き上げた。その骨子は、天皇に畏敬の念を抱く日本人のメンタリティが述べられ、戦争は天皇が自ら起こしたものではないと指摘。さらに終戦において果たした天皇の役割に言及。天皇の命令で700万の兵士が武器を放棄。その結果、何十万もの米国人の死傷が避けられた。天皇を裁判にかければ、統治機構は崩壊し、全国的な反乱は避けられない。占領統治を円滑に進めるには、天皇の力を利用すべきと述べられていた。
  この意見書がマッカーサーの天皇に対する態度に決定的な影響を与え、約4ヶ月後、マッカーサーは本国政府に最終判断を報告した。これにより、ワシントンでの天皇訴追論は事実上終止符が打たれた。1946年4月29日、国際検察局は、A級戦犯28人の被告人名簿を発表。そこに天皇の名はなかった。フェラーズの仕事は終わった。彼は7月、軍を辞め帰国した。後にフェラーズは言っている。「わたしはあの覚書の内容について自信が持てなかった。ミチ・カワイから授かったものだ。彼女が私を助けてくれた。マッカーサーの天皇に対する態度に彼女は大きな影響を及ぼしたと思う」。
  1953年2月11日、河井道の最期の時が来た。食道癌が体を蝕んでいた。1年前から療養生活が続けられ、一色ゆりが一日も欠かさず病院に泊まり込んで看病した。彼女の献身的な世話は5ヶ月に及んだという。昏睡状態に陥った道を取り囲むように多くの友人が、病室に、廊下に、階段に溢れていた。彼らが歌う賛美歌の厳かな響きに包まれながら、午後7時10分、河井道は静かに息を引き取った。終生独身を通したが、数多くの精神の家族に囲まれていた。天皇を救うことで日本を救った影の功労者として歴史に記憶される女性となった。享年75歳。



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