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李方子

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李方子 
(りまさこ)

韓国を祖国として福祉活動

政略結婚で李王朝に嫁ぐ  夫への愛と献身

  日本の皇族から韓国の皇太子に嫁いだ日本女性がいた。日韓の不幸な関係を象徴するかのような辛い人生を立派に生き抜いた李方子。数奇な運命に翻弄されながらも、夫への愛と献身を貫いた。晩年は韓国を祖国として、不幸な子供達のために福祉活動に専念。今、韓国の土に眠る。

日韓の溝

  李方子を扱うことは、日本人としては非常に心の痛いことである。日韓の辛くて暗い歴史の溝の中に投げ込まれた人生を送らざるを得なかった女性であったからである。方子は、1901年11月4日、皇族梨本宮家の長女として誕生した。18歳で韓国(当時は朝鮮)の李王朝26代高宗皇帝の王子李垠に嫁ぎ、彼女の人生は、日韓の相克の渦の中で翻弄され続けることになる。それは彼女だけではない。その夫の垠にしても同様で、ある意味では方子以上に屈辱を味わい、辛酸を舐め尽くした人生であった。
  1897年に生まれた李垠は、日露戦争後の1907年10歳の時、日本留学を強要された。皇太子であった垠を日本で教育し、日韓両国の永遠の礎を築こうという伊藤博文(初代韓国総監)の遠大な計画に基づいて実行されたことである。しかし、韓国側は当然これを人質と受け止めた。
  韓国の植民地化は、事実上は日露戦争終了(1905年)をもって始まった。その2年後の留学である。留学というのは名目で、実際は人質と見るのが自然であろう。10歳にして両親から引き離されて、人質の立場に身を置きながら、後には日本の軍人となっていくのである。垠の苦悩は想像を絶するものであったろう。

悲劇の結婚と方子の決意

  二人の結婚は、はじめから悲劇を孕んだものであった。それは軍閥が決定したいわゆる政略結婚というばかりではない。実は、方子は皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)の有力なお妃候補であった。しかし侍医から不妊症と診断され、お妃候補から引きずり落とされた。その不妊症とされた方子を李王朝の皇太子に嫁がせようと言うのである。明らかに李王家を断絶させようという軍閥の思惑があった。後に方子が垠の子供を生んだとき、方子を診察した侍医は処罰されたという。
  悲劇はそればかりではない。当初二人の結婚は1919年1月に予定されていたが、垠の父、つまり第26代皇帝高宗が急死し、結婚が1年延期になった。それも、高宗の死は日本人による毒殺と噂されていたのである。後に明らかになったことであるが、これは朝鮮総督府の官吏(日本人)が宮中典医を脅迫して、毒を盛った暗殺事件であった。方子は日本人として、婚約者垠に対する罪悪感で苦しんだ。しかし、自分たちの意思でどうなることでもない。「日鮮融和」というスローガンが重く方子の肩にのしかかった。
  そういう中でも唯一の救いは、方子の決意が堅かったことであった。14歳で李王家に嫁ぐことが知らされた直後、彼女はまず髪型を変えた。髪を真ん中で分け、ぴたりと横にとき流した朝鮮式の髪型である。異国の王朝に嫁ぐ彼女の決意の現れであった。この決意は高宗の死に際しても揺らぐことはなかった。自分の辛さに思いを向けるのではなく、婚約者垠の胸の内を推察し、むしろ彼を慰めてあげたい。そのためにも、夫を心から愛する妻になり、暖かい家庭を築いて差し上げたい。この気持ちが変わらなかったからこそ、結婚後の次々と襲う危機と困難を乗り越えることができたのだ。

長男晋の誕生と死

  方子の夫垠は感情を表すことがきわめて少なかった。日本留学に向かう出発直前、父の高宗が「日本に行ったら喜怒哀楽は顔に出さないように」と諭したからでもあろうが、人質という複雑な境遇がしむけた一つの「生きる知恵」であったのであろう。
  そんな垠が幸福感に満たされた時があった。息子の誕生である。不妊の女と言われた方子が元気な男の子、それも李王家の跡継ぎを生んだのである。出産直後、「元気な男の子です。ご苦労さま」と言って、垠は優しく方子を労わった。そこにはそれまで方子が見たこともない、顔をほころばせながら、喜びに満ち溢れた夫の姿があった。それを見て、方子は涙がこみあげてきた。
  しかし、そんな誰もが感ずるごく一般の夫婦の幸福は、長くは続かなかった。恐れていた最悪の悲劇が彼ら二人を襲った。息子の死である。
  親子3人での朝鮮への里帰りのため、1922年4月23日3人は東京を出発した。結婚後の初めての里帰りであり、朝鮮王朝風の結婚式を祖国で上げることにもなっていた。長男の晋はまだ8ヵ月の赤ちゃんであり、離乳時期を迎えたばかりであった。気候風土の変化で病気にでもなったら大変である。二人は晋を日本に残しておきたかった。しかし、韓国側の「子供を連れてきてほしい」という強い要望を飲まざるをえなく、結局三人で里帰りすることになったのである。
  方子は後に、「8ヵ月の赤ん坊を連れていくということは本当に心苦しゅうございました。連れていくのは嫌だとは、どうしても申されない立場ですからね。本当に苦しんだことがございます」と胸の内を語っている。
  朝鮮式の結婚式がつつがなく執り行われ、帰国の日も近付きつつあったとき、それまで元気にしていた晋が突然息遣いが荒くなり、嘔吐を始めた。医師は急性消化不良と診断した。しかし、晋の容態は一向に回復しない。むしろ悪くなる一方であった。母の必死の介護や祈りの甲斐なく、5月11日ついに8ヵ月の赤ちゃんは亡くなってしまった。
  「なぜ、私を死なせてくれないのか」と言って、方子は冷たくなった子供の亡骸を抱いて、ただ泣くばかりであったという。当然、毒殺の噂が立った。「李王朝に日本人の血が入ることに拒んだ者の仕業ではないか」と。しかし、真相は闇の中である。真相はどうあれ、晋の死が毒殺と考えることが自然であるほどに両国の溝は深刻であったのである。
  5月17日、晋の葬儀が行なわれた。方子は、晋がお腹のなかにいたときに編んだ毛糸の衣類やおもちゃなどを棺に納め、宮殿で葬列を見送った。彼女が我が子のためにやってあげられたことは、それだけだった。親子3人の最初の里帰りが、息子の死という悲劇の結果となり、傷心のうちに方子は帰国した。
 悲しみに沈む方子を慰めたのは、常に夫であった。垠は悲しみを押し殺し、全てを忘れようとするかのように軍事訓練に没入した。人質としての辛く寂しい体験を通して、彼はたくましい忍耐力を有するようになっていたのであろう。方子は夫に励まされ、徐々に立直っていくのである。

終戦後の困難

  終戦は、二人にとっては決して解放ではなかった。むしろ、さらなる困難が彼らを襲った。敗戦により、二人は王族(李王公家)の立場を剥脱され、一般の在日朝鮮人という立場に甘んじなければならなくなってしまった。二人とも、生れ付きの王族で生活力はまるでなかった。電車に乗ったことすらなかったのである。お金を持ったことすらなかった。まずお金の使い方から習わなければならなかったほどなのだ。
  その上、廃止された各公家には一時金が支給されたが、「軍人はその対象とせず」ということであったから、彼らには一時金も支給されなかった。垠は敗戦時、陸軍中将だったからである。日本軍の軍人であったにもかかわらず、垠が韓国人であるということで、軍人恩給も支払われることがなかった。たちまち生活は困窮し、李王邸(現在の赤坂プリンスホテル旧館)を手放さなければならなくなった。
  日毎、気力を失い、家に閉じこもりがちな垠は、祖国への帰国を願うが、それもかなわない。垠は何度も駐日代表部を通して、帰国を打診したが、李承晩大統領の返事は冷たいものであった。大統領は、もし垠が帰国したら、国民の同情が彼に集まり、自分が不利な立場になることを懸念したと言われている。戦前、垠は常日頃口癖にしていた言葉があった。「私はすでに朝鮮人ではない。といって日本人にもなれない。結局どちらでもない中途半端な人間なんだ」。この不安が、戦後まさに現実となって、垠と方子を苦しめた。日本からも韓国からも、二人は見捨てられ無国籍状態に陥ってしまったのである。

祖国の土

  韓国への帰国も叶わず、援助もない状態が続いた。彼らのこうした苦境を知って、手を差し伸べてくれた人々もいた。一人は昭和天皇。祖父に当たる明治天皇の代に、垠を連れてきたことに天皇は心を痛めていた。他に吉田茂首相をはじめ、朝鮮総督府勤務のOBの財界人などが、支援に名乗りを上げた。
 垠はこれらの支援に心から感謝した。しかし、同時に恥ずかしく思っていたという。自分の祖国の彼らへの冷遇が世に知れることになるからであった。
  1961年、韓国で軍事クーデターが発生し、朴正熙が国家再建最高会議の議長となり、全権を掌握した。その直後、朴議長は垠と方子のために特使を日本に派遣し、生活費・療養費の一切を韓国政府が保証する旨を伝えてきた。祖国が救いの手を差し伸べた瞬間であった。しかし、垠はこの時すでに脳血栓で倒れており、意識も混濁状態にあり、祖国の嬉しい知らせを知ることはできなかった。
  垠の帰国が実現したのは、それから2年後の63年11月22日。垠はすでに66歳、方子は61歳となっており、垠の在日生活は56年の歳月を数えていた。二人は日本政府が準備したチャーター機で、日本を発つ朝、方子はベットに横たわる夫に静かに語りかけた。「殿下、お国に帰りましょう。私がお供しますから。ずいぶん長い間、お待ちになりましたね。これからは幸せで平和な日々をお送りになれますよ」。
  夫が祖国に帰ったのだと意識できる心が残っている内に、祖国の土を踏ませてあげたい。方子のささやかな願いであったが、これは叶わず、無念の帰国となった。
  夫婦となって50年、金婚式の祝いを済ませた3日後、1970年5月1日垠は方子に見守られながら、静かに息を引き取った。
  韓国に渡って以来、方子は夫の看病を続けながら、福祉活動に取り組んだ。これは夫が元気だった頃、二人で語り合った帰国後の夢の実現でもあった。67年に障害を持つ子供のための施設「明暉園」、72年には精神薄弱児のための教育機関「慈恵」学校を設立した。
  89年4月30日に87年間の生涯を終えるまで、夫の祖国にとどまり、不幸な子供たちの面倒を見続けた。日韓の溝の中に投げ込まれた不幸な人生ではあったが、方子はその不幸を自ら引き受け、その人生を美しく立派に生き抜いた。李王家に嫁ぎ、夫を支え慰労する日々を生きただけでなく、晩年は福祉活動に専念し、夫の祖国の人になりきったのである。今、方子は夫の眠る韓国の土に還り、夫の隣りで日韓両国の行方を静かに見守っているに違いない。



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