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高峰譲吉 
(たかみねじょうきち)

百年経った今も使われる薬
日本固有の技術  「たくさんの人を救いたい」

  明治の時代、日本人がアメリカで生活することは簡単なことではない。まして競争社会のアメリカにおいて、ビジネスで成功することなど考えも及ばないことである。それを成し遂げた人物が、高峰譲吉である。人におもねることのない高い「志」、そして高潔な人格。日本人の誇りとして今なお語り伝えられる。

ベンチャービジネスの先駆者

  高峰譲吉は、明治の時代にアメリカに渡り、大成功を収めた企業家であり、化学・薬学の分野で活躍した科学者でもある。今で言うベンチャービジネスの先駆者であり、競争社会のアメリカで富と尊敬の両方を勝ち得た人物である。
  彼が発見したタカジアスターゼは、百年経った今も胃腸薬、消化剤として使われ、日本だけでも年間100トンは生産されているという。またもう一つの大発見はアドレナリン、世界最初のホルモン物質(内分泌物質)である。これも今なお医療の最前線で使われる新薬で、その強い止血作用が手術の現場では不可欠なのだという。これを使うと出血はそれまでの10分の1ですみ、「奇蹟の薬」とも「世紀の新薬」とも称された。
  アメリカ人を妻にし、36歳でアメリカに移住し、30年に及ぶ在米生活は、なまやさしいものではない。厚い壁が立ち塞がる中での戦いの連続であり、家族や支援者の支えなしに成し遂げられることではなかった。そして彼らの支えに値するだけの高い「志」が、彼の精神に常に貫かれていた。

化学者の道

  譲吉が化学者の道を進むようになったのは、父の影響であることは間違いない。父精一は加賀藩(現石川県)お抱えの医者であった。藩の防衛上、火薬の製法に通じた人材が必要とされ、医者であった精一が藩の「化学教授」として登用されることになる。家の一隅には実験室があり、フラスコ、ビーカーなどを使って実験する父の姿を幼い頃から見て育ったのであった。
  明治維新の1868年、新政府は大阪舎密局を創設した。ヨーロッパから化学の技術を移植するために設けられた、我が国最初の拠点であった。譲吉はここに付設された医学校に入り、ドイツ人教師から化学実験、化学分析など化学の基礎を学ぶことになった。15歳の頃である。このころ、彼は医者ではなく、化学の道を目指し始めた。「医者は一人一人の患者を救う。化学はいっぺんにたくさんの人を救える」と考えたからと言われている。「志の高さ」がうかがわれる。
  その後、工部大学校応用化学科を首席で卒業し、工部省よりイギリス留学を命じられる。3年間の留学で、帰国したときに28歳となっていた。譲吉の社会人としての出発は、帰国後勤務した農商務省御用掛から始まる。
  彼の就職には選択肢がいくつかあった。印刷局やソーダ製造所などである。しかし、それらの薦めをすべて辞退してしまった。すでに西洋で充分に発達した工業を日本に導入するには、西洋からベテラン技師を連れてくるのが最適であると考えていたからである。単に先人の跡を追うことに彼は関心を示さなかった。彼は言う、「日本固有の産業や技術を掘り起こしてみたい。その分野に最新の化学の知識を応用してみたい」と。後のベンチャー育成につながる独創性がすでに芽生えていた。
  こうした彼の考えから、農商務省の技術官僚として日本各地を精力的に調査して回った。彼が関心を持ったのは、日本酒の醸造、天然染料である藍の製造、和紙の製造などである。特に日本酒の醸造に関しては、母の実家が富山で造り酒屋であったこともあり、格別の関心を寄せていた。

国際博覧会

  1884年9月、譲吉は米国に向けて横浜港を出航した。ニューオリンズで開かれる国際博覧会への参加を命じられたためである。約1年間の長期出張となり、この期間、彼の人生にとって決定的とも言えるいくつかの収穫があった。一つは後に妻となるキャロラインとの出会い。それと燐鉱石との出会いである。燐鉱石は燐肥料の原料となる鉱石で、博覧会場の一隅に展示してあった。遠からずして人造肥料が日本の農業にとって重要になると考えていた譲吉は、これを見逃すことはなかった。
  さらに、米国滞在中、彼はウィスキーの新しい製法に関する構想を得たと言われている。米麹の持つ優れたアルコール発酵能力をウィスキー製造に転用するという画期的なアイデアで、日本酒製造の技術を米国で生かそうとする野心的な試みである。後に米国でベンチャービジネスに乗り出すきっかけとなった。
  帰国後、譲吉は早速燐鉱石で人造肥料を製造する会社を興そうと企てた。三井物産の最高責任者であった益田孝、財界の大御所であった渋沢栄一らを説得し、帰国後2年目にして「東京人造肥料会社」が設立する運びとなる。社長は渋沢栄一で、譲吉は技術師という立場であったが、事実上譲吉が中心的存在であることは誰もが知るところであった。

会社を捨て米国へ移住

  肥料会社を立ち上げ、これからというとき、妻キャロラインの母メアリーから朗報が届いた。全米にウィスキーの原液を独占的に供給している「ウィスキー・トラスト社」が譲吉の研究に関心を示し、「実際に実験して、結果を見せてほしい」という知らせであった。メアリーが譲吉のアイデアに惚れ込み、セールスを続けていたのであった。譲吉にとって願ってもないことである。妻と子供を連れて米国移住を決意する。
  しかし事はそう簡単ではない。事実上譲吉が責任を持って運営している肥料会社はどうなるのか。社長に祭り上げられた渋沢栄一は、当然苦言を呈した。「事業の成功を見る前に、中心人物たる君がこの会社を去るということは、はなはだ信義を欠くことではないか」。もっともなことである。間に立ったのは、三井物産の益田孝であった。「日本人の発明を米国の会社が実用化しようなどという話は未だかつてなかったことだ。この際、高峰の目的をつぶすようなことはやるまい」と言って渋沢を説得した。渋沢も、「大局から見れば、高峰氏一身のためにも、また国のためにもこの際、彼を快く放してやって渡米させるのが、私のとるべき道かもしれない」と考えたと後に述懐している。
  1890年11月、譲吉は家族と助手一人を伴って渡米した。助手として同行したのは藤木幸助という人物で、杜氏つまり日本酒の醸造職人である。譲吉は36歳で、藤木は41歳であった。

モルト業界の妨害

  ウイスキー製造の新アイデアに飛びついたのは、ウイスキー・トラスト社のグリーナット社長である。譲吉の実験も上々の成果を上げ、本格的な工業化に向けて、一歩踏み出すことになった。しかし、モルト業界の反発は想像を絶するものであった。彼らが数百万ドル投じて建設した麦芽製造場が無用の長物になるからだ。
  いよいよ本格的な製造に着手しようとした直前、試醸場の麹室が火事で焼失した。モルト業界による放火と噂された。譲吉は放火の噂を斥けながらも、失意落胆は隠せない。「ここまで来るには、何度も失敗に失敗を重ね、数え切れないほどの苦渋をなめて、やっとここまでこぎ着けた。それを一夕にして焼失してしまった」と言って男泣きに泣いた。
  張りつめていた緊張の糸が切れたかのように、譲吉は病に伏してしまう。疲労が極限に達していたのだろう、かねてから抱えていた肝臓病が再発してしまった。医師によれば、十中八九は助からないと言われるほどの重病であった。しかし危機一髪のところで手術は成功し、半年の療養と妻の献身的な看護によって、譲吉は健康を取り戻した。
  譲吉の回復を待っていたのは、グリーナット社長である。断固たる決意で再建に取り組もうとしていた。しかし、会社の役員や株主も、既得権益が脅かされるということから、その反対には断固たるものがあった。彼らは株主総会を招集して、最終的に会社を解散してしまう。高峰方式によるウイスキー製造の命脈が断たれてしまった。

富と尊敬を獲得

  苦境のどん底にあって、運命の女神がついに譲吉に微笑みを投げかけた。タカジアスターゼの発見である。ウイスキー・トラスト社が解散になって、約4ヶ月後の1894年2月に特許申請を果たしている。これは、アルコール発酵の研究過程で発見された「ジアスターゼ」という酵素の一種で、消化促進剤、胃腸薬として大変な威力を発揮した。譲吉の研究は、これを契機に酒づくりから薬づくりへと転換することになった。
  この薬の効用と優秀性が証明されることで、アメリカ、ヨーロッパに販路が一気に広がり、高峰一家にようやく安定した収入が入るようになった。このタカジアスターゼの日本での販売を一手に引き受けたのが、塩原又策という若干22歳の青年で、後に譲吉を初代社長に迎えて「三共株式会社」を創業することになる。
  タカジアスターゼ発見の7年後、医学界の大発見と言われたアドレナリンを発見した。これは、「理工学部門での電信電話の発明に匹敵する」とか、「アドレナリンなくして医学なし」と言われるほどの「世紀の大発見」であった。譲吉はこれにより、富と名声を手に入れ、アメリカで最も著名な日本人の一人となった。
  1922年7月22日、高峰譲吉は67歳で人生を終えた。ニューヨーク・ヘラルド紙は社説で、「米国は得がたき友人を失い、世界は最高の化学者を失った」と書いて、彼の業績を称え、その死を惜しんだ。アメリカ人が彼を称えたのは、その成功と富のためばかりではない。その志の高さと高潔な人間性に対する評価であった。
  杜氏の藤木幸助は、ウイスキー製造が挫折した後、日本に引き揚げた。退職慰労金を支払えないほど、譲吉の経済状態は逼迫していた。無念の帰国であったのである。後に譲吉はタカジアスターゼの成功でゆとりができてから、藤木への償いとして、年金を送り続けた。自分の会社の株券も贈ったという。
  藤木はその金で自宅に洋間を増築した。譲吉とアメリカで暮らした部屋と同じ作りの部屋であったと言われている。庭には、神体を譲吉の写真とする「高峰神社」を建ててしまった。毎日朝夕欠かすことなくこれに参拝し、譲吉への感謝を生涯示し続けた。
  譲吉の右腕として、アドレナリン発見に貢献した上中啓三は、譲吉が倒れたという知らせを受けて、すぐアメリカに渡り、譲吉が亡くなるまでの半年間、看病を続けた。三共の創業者である塩原又策も少し遅れて渡米した。譲吉は戦友とも言うべき仲間に囲まれながら、静かに息を引き取ったのである。



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