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高村光太郎 
(たかむらこうたろう)

近代的自我の目覚め
純愛による浄化  最後の作品は智恵子の像

  高村光太郎はパリでの留学体験を通して、近代的自我に目覚めていく。それは新しい彫刻と詩の世界を切り拓く契機となるが、同時に古い日本の伝統的彫刻家である父との確執を生み出すことにもなる。父への反発、そしてデカダンへの耽溺。彼の前に救世主のように現れたのが智恵子であった。

彫刻を護るための詩

  高村光太郎は、大正、昭和の時代に活躍した彫刻家である。彫刻への情熱を失うことなく、生涯にわたり彫刻を彫り続けた。しかし同時に多くの詩を書いた。そしてこの詩において彼は後世に記憶される人となった。
 光太郎は「彫刻は私の血の中にある」と述べ、「私は何を措いても彫刻家である」と断言する。事実、専門家は高村光太郎を「近代日本の彫刻のなかに、はじめて彫刻の何であるかを示した人」と評価する。彫刻家として一つの時代を切り開いたのである。では何故詩を書き続けたのか。光太郎の言葉によれば、「自分の彫刻を護るため」と言う。
  彫刻という芸術上の表現形式は、光太郎の中に内在する表現上の欲望を収め切れるものではなかった。彼は言う。如何ともしがたいこの欲望を言葉で吐き出すことをしなければ、彫刻がこれを引き受けなければならなくなる。しかし、こうした文学的主題を引き受け、何かを物語ろうとして制作された彫刻は、彫刻としての純粋さを失い、愚劣な作品に成り下がる。彫刻を純粋たらしめるため、彫刻を文学から独立せしめるため、彼は詩を書かねばならなかった。

父との葛藤

  高村光太郎は彫刻家・高村光雲の長男であった。光雲は東京美術学校(現東京芸術大学)の教授を務め、上野公園に立つ西郷隆盛銅像などを作り、明治の彫刻界の大御所と仰がれた人物であった。光太郎が「彫刻は私の血の中にある」と言っているのは、天職の自覚のみならず、偉大な父親の影響を述べたものであろう。
  少年時代、光太郎にとって父光雲は絶対的な存在であり、自分が彫刻家になることに何の疑いも持っていなかった。しかし、いざ彼が彫刻家の道を進み、15歳で東京美術学校予科に入学してから、父を異質なものと感じ始めるようになった。光雲は芸術家というより、職人肌の人である。作品の代金を決めるときにも、一日の日当をいくらと決めて、この作品には何日かかったのでいくらという決め方をした。
  美術学校で芸術のなんたるかを学び始めていた光太郎は、父の職人的体質、俗物的職人気質に耐え難き嫌悪感を感ずるようになっていた。父との対立が決定的になるのは、欧米留学後のことである。

欧米留学

  高村光太郎の最初の留学先はアメリカであった。1906年2月、24歳の時横浜港を出発した。ニューヨークで初めての海外生活を体験した光太郎は、日本的な因習や倫理から解放され自由に行動した。美術館や図書館通い、銅像見学。見るもの、聞くもの、全てが新鮮であった。その頃のことを彼は「餓鬼のように勉強した」と述べている。その結果、ニューヨーク美術学校の特待生にまで選ばれたのである。
  翌年6月、光太郎はイギリスのロンドンに向かった。ロンドンの画学校に通い、絵画・彫刻の勉強に励んだ。図書館、美術館、劇場、音楽会などに寸暇を惜しんで通い、西洋文化を満喫した。
  光太郎は留学の最終目的をフランスのパリに置いていた。ロンドンでの生活を約1年で終え、1908年6月パリに向かった。「私はパリではじめて彫刻を悟り、詩の真実に開眼され、そこの庶民の一人一人に文化のいわれを見てとった」。
  光太郎はパリに魅了され、その芸術に酔いしれた。パリの市街を歩き続け、あらゆるものを見て回った。友人に「パリの空を飛べそうだ」とか、「セーヌ川が真っ赤な血を流していた」などと語るものだから、「高村の神懸かり」とあだ名されたり、気が変になったと噂された。彼は気も狂わんばかりに貪欲にパリを吸収し、ヨーロッパを吸収し、そして近代を吸収したのである。

智恵子との出会い

  約3年半にわたる欧米での留学を終え、1909年6月に帰国した光太郎は、以前とは全く違った人間となっていた。新しい自我に目覚めた彼は、父の期待をことごとく裏切ることになる。日本の伝統的な彫刻家である父に背を向けながら、同時に日本の封建的な社会風土に反逆した。親類からは札付きの不良のようにすら思われた。
  家族と社会に背を向けながら、光太郎は当時流行のデカダン(退廃芸術)に流れていった。しかし理想を失い、自ら損ない、卑しめるデカダンは、本質的に光太郎の生きる世界ではなかった。やけ酒を飲み、芸術家仲間の会で暴れたり、女と遊んだり、どうしていいかわからない焦燥の日々。その光太郎が、持ち前の強靱な精神力を持つ求道者のごとき人間に立ち返る契機となったのが、智恵子との出会いであった。
  「キリストの代わりに、このやくざ者の目の前に、奇蹟のように現れたのが智恵子であった」。「一人の女性の愛に清められて、私はやっと自己を得た」。「彼女の純愛によって清浄にされ、以前の退廃生活から救い出されることができた」。
  智恵子との出会って2年後の1914年32歳の時、光太郎はデカダンとの決別宣言とも言える記念碑的詩集『道程』を出版した。「僕の前に道はない、僕の後ろに道は出切る」とうたい、前途に何が待ち受けようとも自ら人生の道を切り拓いて行こうという強い決意を表している。ここにはもう、デカダンはない。『道程』が出版されたその年、光太郎は智恵子と結婚した。光太郎は32歳、智恵子は29歳である。

智恵子の死

  二人の幸福で充実した日々が十数年続いた後、智恵子に不幸が襲う。実家の父が死亡し、その後相続人の遊蕩生活がひびいて家運が傾き、実家は破産した。母は故郷を離れ、上京せざるをえなかった。智恵子は帰るべき家と故郷を失ってしまったのである。
  もともと病弱な智恵子は、療養のため1年の半分ほどは故郷で過ごすことが多かった。故郷の家と自然の中で生活すると体も不思議と回復した。故郷をこよなく愛していたのである。その愛する故郷の喪失と不幸な母への思いが、繊細な智恵子を苦しめた。
  智恵子に精神分裂症の兆候が現れるのは、その頃であった。薬物での自殺を図り、九死に一生を得たものの、その後精神の病は急速に悪化した。保養のため空気のいい千葉県の九十九里浜に智恵子の母と妹と一緒に智恵子を送り出し、光太郎は週に一度の割合で東京から彼女を見舞った。彼がそこで見たものは、自分が鳥となり千鳥と一緒に遊ぶ智恵子であり、松林の一角に立って、「光太郎智恵子、光太郎智恵子、……」と1時間も連呼する智恵子の姿であった。
  光太郎は、「実に純粋に私を愛してくれた、20年前に私を精神的退廃から救ってくれた智恵子にせめて1日でもいつものようにして会いたい」と願うが、叶わぬ願いであった。彼は一生智恵子の病気のために捧げようと誓う。
  約7年の闘病生活の後、智恵子は静かに息を引き取った。その日、智恵子はいつもと様子が違い、健康な昔の顔になっていた。智恵子は光太郎の持っていったレモンを食べ、一瞬意識が正常に戻った。その様子を彼は「レモン哀歌」にうたう。「あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑う/わたしの手を握るあなたの力の健康さよ/あなたの喉に嵐はあるが/こういう命の瀬戸際に/智恵子はもとの智恵子となり/生涯の愛を一瞬に傾けた/それからひと時/昔山巓でしたような深呼吸を一つして/あなたの機関はそれなり止まった」。智恵子は53歳であった。

智恵子の面影を追って

  智恵子が死んだ1938年は、日中戦争勃発直後で、日本が太平洋戦争に向かって歯止めがかからなくなった時期である。智恵子を失い、芸術の制作目標まで見失った光太郎は、心の空白を埋めるかのように戦争協力に傾斜していく。芸術を戦争政策に奉仕するものと捉え、多くの戦争協力詩を発表した。
  敗戦の衝撃は光太郎を打ちのめした。聖戦と信じた自分の愚かさに気付き、岩手県の山中で山小屋生活を送るようになる。彼の言葉によれば、自らを島流しにし、罪を償う生活であった。電灯がなく、食糧事情が極度に悪い、劣悪な環境の山小屋で、孤独な自炊生活を開始した。
  約7年の山小屋生活に終止符を打ったきっかけは、智恵子への思いであった。友人達の勧めで、十和田湖国立公園15周年の記念像を作ることになったのだ。長く厳しい山小屋生活は光太郎にとって、単に罪の償いの期間ではなく、亡き智恵子の思い出を精神の中に刻み込む期間でもあった。
  「智恵子の裸形を私は恋う/わたくしの手でもう一度、あの造型を生むことは/自然の定めた約束」であるとし、「智恵子の裸形をこの世にのこして/わたくしはやがて天然の素中に帰ろう」とうたっていた。智恵子の像を制作したいという意欲にかられる。この詩を書いた2年後に十和田湖の記念像の依頼が舞い込んだ。
  光太郎は東京のアトリエに戻り、智恵子像制作に熱中した。彼の内に生きる智恵子に肉体を賦与するかのように渾身の力を傾けたのである。長い山小屋生活は彼の健康をすっかり蝕んでいた。喀血しながらの制作だった。智恵子像が完成した直後肺結核が発病し、まるで自らの命を代償にして智恵子像に命を吹き込んだかのように、彼は生涯を終えた。
  苦悩に満ちた生涯であったが、光太郎は決して不幸ではなかった。彼は何かに捧げていなければ生きていけない性分の人物であった。40年以上にわたり一人の女性を愛し、その愛をうたい続けた彼の人生は、美しく賞賛に価する。苦悩は時に人格を錬磨し、美を生み出す母体となる。光太郎は悶え苦しみながら、捧げる人生の尊さを我々に教えてくれる。彼の生涯の最高傑作は、彼の人生そのものだったかもしれない。



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