IFSAは外国人留学生のための様々な情報提供、就職・転職支援(日本人海外経験者含む)までを行う非営利団体です。

松江豊寿

Top>向学新聞現代日本の源流>松江豊寿


松江豊寿 
(まつえとよひさ) 

敗者の痛みを知る会津武士 
人道主義を貫く  日本初のベートーベン第九 

  捕虜であるドイツ兵から慈父のごとく慕われ、尊敬された松江豊寿。「敵を敬え」の武士道精神を収容所の所長として実践した。彼の博愛精神は、敵国同士であった日独の間に友愛の絆を作り上げ、今なお2世たちの手により両国の友好は続けられている。

「敵を敬え」の精神

  第一次世界大戦時に日本の捕虜となったドイツ兵の収容施設があった。その施設の一つが板東俘虜収容所(現在の徳島県鳴門市)で、その所長が松江豊寿である。ここは他の収容所とかなり趣を異にしていた。
  所長である松江はドイツ兵の境遇に深い理解と同情を示し、捕虜を人道的に扱い、可能な限りの自由を与えた。「彼らは捕虜ではない。祖国のために精一杯戦った立派な戦士である」。これは彼の口癖であり、「敵を敬え」の武士道精神の現れであった。
  こうした松江の方針の下、2年8ヶ月間収容所で過ごしたドイツ兵は、地元民と親密な交流を持つに至る。ドイツ敗戦の報が伝えられると、彼らの境遇に同情して、「早くドイツに帰れますように」と神社に日参する老婆たちが現れるほどであった。
  また若いドイツ兵は松江所長を慈父のごとく慕った。50数年ぶりに板東を再訪したパウル・クライは、次のように述べている。「板東こそは、国境を越えた人間同士の友愛の灯がともっていた。私は確信を持って言えます。世界のどこに、板東のようなラーゲル(収容所)が存在したでしょうか。世界のどこに、松江のようなラーゲル・コマンダー(所長)がいたでしょうか」。

会津武士

  日本の軍人には、一般的に捕虜を軽んずる傾向がある。「生きて虜囚の辱めを受けず」という言葉が叩き込まれていた。捕虜というのは、命惜しさに生き長らえた卑怯者である。捕虜になるくらいならば、潔く切腹するのが軍人の道であるというのだ。それ故、ドイツ人捕虜に対しても、日本の軍人は、どこか見下す風があった。
  しかし松江豊寿には、こうした捕虜観はまったくない。むしろ敵であり、捕虜であるドイツ兵を尊重しようとする気持ちが溢れていた。このことは、会津に生まれた彼の生い立ちと決して無関係ではない。
  明治政府ができた4年後、1872年6月6日に、松江豊寿は会津に生まれた。会津藩は、幕末に徳川側に付いて明治の新政府と戦ったため、朝敵(天皇の敵)とされた歴史を持つ。新政府成立後は、会津藩の武士の大半が斗南(岩手県の北側と青森県の一部)に移住を強要された。そこは事実上の流刑地で、飢えと寒さで多数の死者が出た。武士であった豊寿の父も斗南に移住を余儀なくされ、屈辱の時期を過ごした一人であった。
  豊寿が生まれたのは、父が会津若松に戻った直後であるから、斗南の苦境を直接は知らない。しかし父から常に語り聞かされ、敗者の痛みを胸に焼き付けながら育った。ドイツ兵捕虜と共感できる素地ができていたのである。彼らを「人間」として扱おうとしたのも、捕虜の姿に苦難の会津人を重ねて見ていたからであろう。

韓国で見たもの

  1894年、松江豊寿は陸軍士官学校を卒業して陸軍に入隊。1904年に始まった日露戦争で、韓国の仁川に派遣され、韓国駐留軍の副官として任務を遂行した。32歳の頃である。
  日露戦争後、韓国保護条約が調印され伊藤博文が初代統監に就任した。伊藤は、韓国併合には反対で、韓国が独立を達成するまで保護し、支援するという持論の持ち主であった。それに対して司令官の長谷川好道は、武断的人物で韓国を力で押さえつけ、その植民地化を促進するという考えである。伊藤統監は武力で何事も解決しようとする軍部を嫌った。松江も武断政策を嫌悪したため、長谷川の部下ではあったが、長谷川から疎んじられ、伊藤に可愛がられた。ちょくちょく食事に誘われ、親交を深めたという。
  当時日本の保護国であった韓国は、外交権が剥奪されていたこともあって、たびたび民衆の蜂起が起こった。軍人としての松江はこれを鎮圧する側に立たざるを得ない。しかし、このことは松江にとって身を切るような思いであった。韓国人の胸の内が痛いほどわかるのである。かつて新政府軍から力でねじ伏せられた会津人の屈辱を思うと、韓国に対して同情の思いを禁じ得なかった。暴徒鎮圧の功で金一封を授与されても、松江の心は決して誇れるものではなかった。
  日韓併合交渉の最中に突然、松江は副官を解任され、帰国命令が下った。どうして解任となったかは、わからない。松江自身このことをまったく語らないからだ。おそらく韓国に対する日本の強引な対応に対し上司と対立したか、嫌気がさして自ら副官を退いたのであろう。晩年、松江が会津若松の市長に就任する際、経歴書の提出を求められたが、軍隊時代の経歴、戦歴について明記することを強く拒んだという。韓国で体験したことは、記憶の中から消し去りたいものであったのだ。

板東俘虜収容所

  1914年、ヨーロッパで第一次世界大戦が勃発した。日英同盟を結んでいた日本はドイツに宣戦布告し、ドイツ軍が駐留していた中国山東半島の青島を攻撃した。日本兵3万に対し、ドイツ兵5千。勝敗は決まっていた。ドイツ兵は青島要塞を死守しようと勇敢に戦ったが、ついに降伏し約4600人のドイツ人捕虜が日本に護送された。
  松江豊寿が所長を務めていた板東俘虜収容所には、最も多い時で1028人のドイツ兵が収容されていた。当時、全国に収容所は6カ所あったが、板東の収容所は明らかに異質であった。そこには松江精神と言うべきものが貫かれていたのである。収容所が開所する時、集められた捕虜を前に松江は、「私の考えは博愛と人道の精神と武士の情けをもって、諸君に接することである」と訓示した。
  これは単に言葉だけではなかった。捕虜たちは朝晩の点呼以外は、ほとんど自由に振る舞うことができた。自主性を尊重しようと言う松江の考えからである。収容所からの外出に対しても寛容であり、ドイツ兵は散歩や山登りを楽しんだ。面会者には一切制限を付けずフリーパスで通した。お小遣いの不足している捕虜には、アルバイトまで斡旋したという。さらには、ドイツ兵の編集による新聞発行まで許可したというから、驚きである。
  松山からドイツ兵の捕虜89名が、板東の収容所に送られてきた時のことである。板東に近づくにつれ、ブラスバンドの音楽が聞こえてくる。曲はドイツの愛国歌「旧友」。捕虜たちの間にどよめきが起こった。板東の捕虜たちによる歓迎の演奏だったのである。
  門には、青島で共に戦った懐かしい兵士たちが待ちかまえている。松山から来た捕虜たちは嬉しさのあまり歓声を上げて駆け寄ろうとした。驚いたのは、松山の護送衛兵である。「整列!整列!」と叫んで、捕虜たちに銃剣を突きつけて包囲した。一瞬緊張が走る。そこに現れたのが所長の松江。銃剣を構える衛兵に「構わぬ!」と言い、銃剣を納めるよう命じた。彼は松山から来た捕虜に向かって非礼を詫び、あらためて歓迎の辞を述べた。そして、「十分に旧交を暖めたまえ」と言って、その日に限り就寝を12時まで延長すると告げた。捕虜たちから歓声が上がったのは言うまでもない。松江は捕虜たちを人間として扱おうと決めていたのである。

ドイツ兵と地元民との交流

  収容所があった板東桧集落の人口は、500人足らずだったから、一挙に倍以上のドイツ人が入ってきたことになる。この地域は四国八十八カ所の巡礼が始まる場所で、人々は信仰心に富み、他者を受け入れる優しい心根の持ち主が多かった。捕虜のドイツ兵に対しても、「文明国から来た珍しいお客様」として迎えたのである。
  ドイツ兵は最新の家畜技術を村人に伝授し、チーズ、ソーセージ、ベーコン作りを教えた。村人にとってどれも目を見張るものばかりである。菓子やパン作りを習った者の中から、お菓子屋を開業する者まで現れた。現在でもその店は徳島にあり、「ドイツ軒」の名で営業しているという。
  敵であるドイツ兵との国境を越えた交流を記念して、1972年鳴門市はドイツ館を建設した。そこに納められている品々は膨大な量で、みな地元民の家に残されていたものだった。人々はドイツ兵に親近感を抱き、彼らの文化を尊敬していたので、大切に保管されていたのだという。
  2年8ヶ月の収容所生活を終え、ドイツ兵の帰国の日が迫っていた。ドイツ兵の中から、日本を去るにあたって、松江所長と板東の人々へ捧げる感謝の演奏会を開きたいという申し出があった。ベートーベンの第九交響曲を演奏するという。この最後の演奏会に、板東の人々全員が招待された。楽器も決して十分なものではなかったが、「苦悩を突き抜けて歓喜へ!」と歌う合唱、そこに感謝と友情の気持ちが溢れていた。言葉や習慣が違っても、たとえ敵国同士であったとしても、結びあえる友情がある。そこにいる誰もがそう感じた。板東という日本の片田舎で、日本最初のベートーベン第九の記念すべき演奏が、こうして行われたのである。

今なお続く交流

  松江は、陸軍省から「捕虜たちに甘い」と睨まれることも少なくなかった。しかし、彼は怯むことなく信念を貫いた。彼らは祖国のために勇敢に戦った兵士である。犯罪者でもなく、ここは刑務所でもない。戦争が終わってドイツに帰還できる日まで、無礼な扱いをしてはならない。こうした松江の信念は、敵国同士の間に友情を生み出した。
  1962年1月、一人の元捕虜から板東に手紙が届いた。帰国して47年後のことである。「懐かしき板東の皆さん。板東収容所の日々は、歳月がどんなに経過しても、私達の心の中で色あせることはありません。目をつむると今も松江大佐、バラック、町のたたずまい、町の人々、山や森や野原などが、瞼の裏に浮かんできます。できることならこの目でもう一度、見たいのです」。
  帰国したドイツ兵たちにより、ドイツに「バンドー会」が作られ、鳴門市との本格的な交流が続けられている。今では2世に交流が及んでいるという。1989年、元捕虜のオスカー・マイの娘エリカが来日した。彼女は父がどれほど松江を尊敬していたかを語った。彼女の父は松江の肖像写真を大切に保管し、その裏には「実に偉大なる人物」と書き込まれていたという。



a:5709 t:4 y:2

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional