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検証 留学生政策

Top向学新聞>2017年7月号

検証 留学生政策 


(1) 10万人計画達成前後


急増と締付け繰り返す


「質の確保」学校の責任で



 1983年に当時の中曽根首相の指示で始まった「留学生受入れ10万人計画」は、21世紀初頭の留学生数を当時のフランス並みの10万人まで増加させることを目指し、20年かけて目標を達成した。さらに08年には福田首相が、2020年までに留学生30万人の獲得を目指す「留学生30万人計画」を策定。日本語学校生を含めた数では達成も視野に入りつつある。そこで日本の留学生政策の変遷をたどり、成果や課題点、それらが現代に投げかける意味について考えてみたい。


留学生数の推移(各年5月1日現在、2011年以降は日本語教育機関に在籍する留学生も含む JASSO資料より作成)
留学生数の推移(各年5月1日現在、2011年以降は日本語教育機関に
在籍する留学生も含む JASSO資料より作成)



●受入体制の不備


 10万人計画は、当時の在日留学生が1万人未満という状況からスタートし、国際社会でのプレゼンスを増すため知日派・親日派を増やしたい政府の方針に則って行われた一大計画だった。ただ、受け入れ体制が不十分なまま10万人という数の追求だけが先行していた点は否めない。


 留学生の奨学金受給率は1998年には約6割で、私立大学留学生への授業料30%減免制度も施行されていた。しかし文部省が同年実施したアンケート調査では、私費留学生の約8割が日本での生活維持のためアルバイトは必要不可欠と回答。生活面や制度面では「在留許可の有効期限を長くしてほしい」「奨学金の支給人数を増やしてほしい」「アパート・マンションなどの家賃が高い」など不満を訴える回答が目立った。


 特に、廉価で良質な宿舎の供給不足は10万人計画発足当時からの課題だった。都市型大学は宿舎の確保が難しく、大学が努力して設置しても留学生の加速度的な増加に供給が追い付かないケースが多かった。


 また、入試のシステムも煩雑だった。日本語能力試験や私費外国人留学生統一試験を受けるためだけにも来日することが必要で、さらに大学独自の試験を課す場合もあり、入学の関門が多くアクセスしにくい形になっていた。


 こうした受け入れ体制の不備も影響し、留学生数は95年の5万3847人をピークに96年、97年と続けて減少。折しも97年にはアジア通貨危機が発生し、文部省は影響を受けたインドネシア、タイ、韓国などの私費留学生に1人当たり5万円の一時金を支給する緊急支援を施し、辛うじて5万人台を維持した。



●文部省と法務省


 留学生数は法務省の出入国管理政策からも大きな影響を受けた。97年の就学生の新規入国者数は1万1755人で、5年前の92年の半数以下に激減していた。就労を目的とした就学生が急増し、法務省が入国審査等を厳格化したためだ。97年までの5年間には、留・就学生の身元保証書の提出義務を廃止したり、専修学校修了者の就職が可能になったり、留学生のアルバイト許可時間を1日4時間以内から1週28時間以内に変更するなど制度が緩和された。しかしビザ審査自体が厳格化したのでは制度の緩和も意味をなさず、以後も留学生の増減は法務省のさじ加減ひとつで大きく左右され続けることになる。



●中国留学生急増


 2000年代に入ってからは、アジア地域での進学熱の高まりと経済の回復を追い風に留学生は急増。特に中国からの留学生が増加を牽引した。『一人っ子政策』開始時の子供が順次大学進学の年齢を迎え、中国内の高等教育機関が十分整備されていなかったこともあいまって、地理的に近く同じ漢字文化圏である日本が大きな受け皿となった。中国を含む留学生総数は2000年には6万4011人、01年に7万8812人、02年には9万5550人と毎年1万人以上のペースで急増。03年にはついに10万9508人となり政府目標は20年越しで達成された。ただ、大学が定員割れを補うため大量に留学生を入学させたり、学生が本来の目的と異なる就労活動をする例も目立つようになり、文科省は「質の確保」を前面に打ち出した留学生政策へと舵を切っていく。



●受入機関の責任


 2003年12月には中央教育審議会が答申「新たな留学生政策の展開について」を河村文科相に提出。各大学が主体的に責任をもって受け入れる留学生の質を確保していくよう求めた。入学時に志願者の留学目的と経費支弁能力の確認を行うことや、入学後にも徹底した在籍管理と成績指導を行うよう各大学に求め、受け入れ機関の管理監督責任が大きく増すことになった。


 法務省も03年にビザ発給の方針を大きく転換。不法残留者が特に多く発生している国・地域については日本語教育機関に新規入学する学生へのビザ発給を厳格化し、預貯金残高の証明書類の提示等を義務付けた。このあおりを受け、日本語学校への入学者は04年4月生、10月生とも激減。05年にいったん12万人に達した留学生総数も翌年には減少に転じた。90年代後期のような入管による入り口の締め付けが再び繰り返されたのだ。


 10万人計画前後の留学生受け入れは文科省、法務省など各所管官庁の采配しだいで学生数が増減を繰り返し、受け入れ現場の混乱を招く不安定なものであった。省庁間の統一性も見られなかった。05年以降しばらく留学生数は横ばいとなるが、10万人後の目標不在の踊り場を抜け出るには、安倍内閣による07年の「アジア・ゲートウェイ構想」および福田内閣による08年の「30万人計画」策定を待たなければならなかった。大学のグローバル化や、社会のグローバル人材へのニーズという波に乗って、留学生政策は「受け入れ」から外に出て「獲得」する人材政策へと変貌し、省庁主導から政府主導へと政策のステージを上げていくことになる。


・検証 留学生政策
(1)10万人計画達成前後  (2)30万人計画へ  (3)「ポストグローバル」



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